tomottow
1
「あなたが――犯人だったのね」
燃えるように赤い空の下で、しかしその声は、凍てつくような冷たさを孕んでいた。
ある、初夏の午後。
雛見沢という村の、古手神社にある境内の一角でのことである。
そこに、二つの人影が対峙していた。
一人は、幼いながらもこの神社の神主でもある少女――古手梨花。
梨花の大きな瞳には、確かな決意と、覚悟の灯火が宿っていた。
その強き瞳が、まっすぐに見据える先には……。
もう一人の少女が、悠然と立っていた。
少女の表情は、怒っているのか、笑っているのか、なんともはっきりとしない。けれど無表情と云うには程遠く――強いて云うならば、その少女は、かすかに笑っているように見える。
両者の間に、一陣の風が吹いた。
涼しげな風が茜色に染まった木々を揺らし、葉と葉の擦れ合う音が、ざわめきと云う名の静寂をもたらす。風に誘われて木の葉が舞いあがり、やがて一枚の葉が、両者の間にはらりと舞い降りた。
それが合図と云わんばかりに、梨花は語りだす。
「圭一が云っていたわね。なんでもかんでも結びつけて考えるな――と。全ての事件はどこかで繋がっていて、それらを結びつけた先には惨劇の犯人がいる……なんて、そんなに都合のいい話があるわけがないと、私も――そう思っていたわ」
梨花の言葉を受けて、くすりと、少女が声を漏らした。少女の表情には、さきほどよりも明確な笑みが浮かんでいた。
それを見て、梨花は一瞬怪訝な顔になったが、すぐに気を取り直して続ける。
「確かに、圭一の云ったとおり――皮肉にも圭一自身が疑心暗鬼に狩られ、惨劇を起こしてしまう世界があり、詩音の暴走が惨劇を起こす世界があり、あるいはレナが惨劇を起こしてしまう世界があるように――それらを全て結びつけて考えることは、間違っていると、私も思う。それらの事件は、云ってしまえば、偶然起こったものだと云うことが出来るかもしれない」
けれど、と梨花は云う。
「それらが偶然だとしても――例えば、圭一が人形を魅音にあげなかったとか、そんな些細な偶然によって変化してしまうものだとしても……それでも。繰り返される世界には、必然と云えることがあるわ」
梨花は、強い視線を少女に向けて、それを云った。
「昭和五十八年の雛見沢村では、必ず惨劇が起こり、古手梨花が殺される――ですか?」
梨花はぎょっとした。
なぜなら、今まさに梨花が云おうとしたことを、目の前の少女がまるで原稿用紙を読むかのごとく淡々と語ったからだ。
不適に微笑む少女を前に、梨花は戦慄し、逡巡する。
――わからない、と梨花は思った。
この少女のことが、わからない。
この少女が何を考えているのか、わからない。
百年以上を共にしてきたはずの、この少女。
しかし―――しかし、そう、一度として。
この少女が本当はどのような存在で、本当は何を考えているのかということを、梨花は……一度として、真剣に考えたことがなかった。
梨花にとって少女は、生まれたときから一緒だった友人であり、家族だ。
少女は誰よりも梨花のことを理解してくれていたし、梨花も少女のことを理解しているつもりだった。
しかし……。
今更ながらに思う。
梨花はあまりにも、少女のことを無条件に信じすぎていた。
それは疑心暗鬼とは全くの正反対。人を信じると云うこと。その大切さと難しさを、梨花は仲間達から教えてもらった。でもそれは、裏を返せば、誰かを信じないと云うことなのだ。
そして今、梨花は、相対する少女に――初めて疑いのまなざしを向けている。
言葉を失ってしまった梨花に、その少女―――頭に二本の角を生やし、薄紫の髪をしたその少女は、いつものようにとぼけて云った。
「…………あぅあぅあぅ」
梨花は、小さな胸の奥で、カッと熱くなる何かを感じた。
それが怒りなのか、悲しみなのか、それとも今に至るまでこの少女についてほとんど考えることをしなかった自分へのふがいなさから来るものか、梨花にはわからなかった。
梨花はかるく頭を振って、再び言葉を続けた。
「――それだけじゃないわ。雛見沢村連続怪死事件。そして昭和五十八年の綿流しの晩に殺される鷹野と富竹。それが――偶然などではなく、百を越えてなお一度たりとて免れなかった必然――そして」
そして梨花は、今度こそ、自らそれを語った。
「昭和五十八年の雛見沢村では、必ず惨劇が起こり、私が殺される」
境内の一角が、シンと静まり返った。
風がやみ、梨花と少女のいるそこだけが、切り離された意空間のように思える。
梨花の言ったことは、雛見沢に関わる者なら誰もが知っていながら、しかしその実、真にそれを理解しているのは梨花と、対峙する少女の二人だけという、奇妙な必然。
くすくすと、少女が場違いなほど無邪気に笑った。
……なにを笑っている。
梨花は、その少女の笑顔を、幾度となく見てきたはずだった。
しかし今、梨花は、見慣れたはずの少女の笑顔に、恐怖していた。
深淵の如く底なしの黒き瞳に全てを見透かされたかのような錯覚を覚え、歪められた口元からは千億の呪詛に勝る悪意を感じた。
……なぜ、笑っているんだ。
一体何を考えているんだ……。
――――カナカナカナカナカナ。
はっとした。
疑心暗鬼に狩られていた梨花の意識は、ひぐらしの声で現実に引き戻された。
風が再び木々をを揺らす。
日はますます傾き、東の空にはすでに夜の兆しが見える。
梨花は一旦気を落ち着かせようと、顔を横に向け、瞼を閉じて深呼吸した。
いけない、落ち着け。クールになれ、古手梨花。
自分に云い聞かせるよう、梨花は心の中でそうつぶやく。
しばしの間の後、少女が優しく語りかけた。
「落ち着きましたか? 梨花」
「えぇ」
短くそう答えると、梨花は、少女に向き直る。
少女はただじっと、梨花を見ていた。
梨花は気圧されるでもなく、冷静に語った。
「百を越える世界で、必ず起こる惨劇。そして、私の死。それが、必然なら……」
梨花は、次の言葉をぐっと飲み込んだ。
なぜならそれは、幾度となく繰り返された惨劇と、自らの死の果てに掴んだ、未来への核心だからだ。それを云うことが、惨劇を乗り越えるための、唯一にして最大の道。
しかし、それを云うことは、同時に。
梨花はすでに、悟っていた。
どうして自分が惨劇に打ち勝つことが出来なかったのか。
そしてどうすれば惨劇に打ち勝つことが出来るのか。
それは――それを云うことは……。
目の前の少女との、決別を意味するかもしれない。
それでも、梨花はここで退くわけにはいかない。
だから、それは一瞬のためらいだった。
「―――些細な偶然によって、未来が変わる世界でなお、繰り返される必然ならば。それはつまり、全ての世界において、そうなるように仕組んでいた何者かがいたと云うことになるわ」
少女は答えない。
瞬き一つせず、梨花の言葉を黙って聴いている。
梨花は云う。つまり、その何者かというのが、
「全ての惨劇の犯人、ですか?」
またしても、少女が梨花の先に云った。
しかし梨花は驚かない。
にや、と不敵な笑みを返して梨花は云う。
「ということは、犯人は――誰が何を望み、何をすればどう動くか、その結果どうなるか、その全てを知っていた人物……なのかしらね?」
真剣な面持ちだった梨花だが、ここで、おどけたような云い方をした。
くす、と少女は声を出して笑った。
「おかしなことを言うのですね、梨花。そんな、世界のルールの様なものを知っている人がいるはずがないのです。もしいたとしたら、それは――」
神様に違いないのですと少女は云った。
そうかもねと梨花は苦笑した。
夕闇の中でくすくすと笑う二人の少女。
もしも、誰かがこの様子を見たら、ほほえましく思うのだろうか。
いや、それは――絶対にないだろう。
なぜならば、梨花と相対している少女の姿は、梨花以外の人物には見ることすらかなわないのだ。
「……まあ、今のはほんの冗談よ」
「梨花の冗談は本気にしか聞こえないのです」
ひぐらしの泣き声がやむ。
惨劇の解は、――静かにもたらされる。
「犯人は――、全ての事件を裏から操っていた黒幕のような人物ではないわ。そして直接誰かを殺したわけでもない」
梨花の顔から笑みが消える。
「ただ――その人物は、誰よりも強い意志を持っていた。何をするでもなく、ただ心の奥底で願っていた。――その願いとは、私が殺されて、再び世界がやり直されること」
「それで、犯人は誰なのです?」
臆面もなく云う少女。
梨花もまた、躊躇もためらいもなく、目の前の少女にそれを告げた。
「あなたが――――犯人だったのね、羽入」
羽入と呼ばれた少女は、やはりいつものように。
「…………あぅあぅあぅあぅ」
おどおどした調子で、曖昧に誤魔化した。
2
切欠は些細なものだった。
それは一時間ほど前にもたらされた。
梨花が仲間達といつのもように部活をしていた時のことだ。
「だあーっ! ちっくしょー!」
圭一は握っていたサイコロを放りなげ、頭を両手でわしわしと掻き出した。
その様子を見て、沙都子が嘲笑する。
「を〜ほっほっほ。ざまあないですわね、圭一さん」
「さ、沙都子〜〜〜! お前か? イカサマをしやがったのは!」
「何のことだがわかりませんわね〜?」
「ち、ちくしょおおおお……」
圭一は拳をにぎりしめてわなわなと振るえて呻いた。
「くっくっく。またゴール出来ずに最下位だねぇ、圭ちゃあん」
魅音が挑発するように言う。
「け、圭一君。気を取り直して頑張ろうよ!」
「暫定三位のレナに云われてもな……」
今回の部活はスゴロクだった。
スゴロクといえばサイコロを振って出た目だけ盤上の駒を動かし、どれだけ早くゴールにたどり着くかを競うゲームだ。基本的には運任せのこのゲーム。しかし勝つためにはどんな手段をとってもいいとされるのが部活の掟。運任せのはずのこのゲームで、何度やっても圭一がゴールできないのは、明らかに何者かの仕業に違いなかった……。
すでにスゴロクは四巡目を終了していた。トータルの順位は一位が詩音、二位が魅音、三位がレナ、四位が沙都子、五位が梨花……そしてぶっちぎりの最下位が圭一だった。
「な、なぜだぁ……なぜゴール出来ねえぇ……! 天才のこの俺がなぜ!」
「圭ちゃんも運がないですねぇ。その点私は日ごろの行いがいいですから、私が一位なのは必然でしょうね」
「今のは俺の聞き間違いか? 素行の良し悪しが運につながるなら、詩音は最下位以外ありえないだろ……」
「くっくっく。そんなことより次で一位をとらないと、圭ちゃんの罰ゲームは確定だよ?」
「はう〜〜。今日の罰ゲームの衣装…………ん、ぐふっ!」
「レ、レナさんが吐血しましたわ!」
「は、初めて見るリアクションだな。しかし……今回の罰ゲームの衣装の異常さを考えれば、レナの尋常ならざる反応にも全く違和感を感じることはない。あ、あれを着るのだけはなんとしても避けたいところだぜ」
「くくく。そんな受身な思考でおじさん達に勝てると思わないほうがいいよ」
「へっ、前原圭一様をなめるなよ! こっから奇跡の大逆転を見せてやるぜ!」
「………………」
圭一達がもりあがる中、梨花は一人、うかない顔をしていた。
「梨花、どうしたのですか?」
羽入が声をかける。もちろん梨花以外は気付かない。
「似ていると思わない?」
「……圭一のことですか」
「決してゴールできないスゴロク……。何度サイコロを振っても、どの目がでても、ゴールにたどり着けない」
「梨花……ただの偶然なのです。そんなことで、落ち込まないで下さいなのです」
「落ち込んでなんていないわ。ただ、圭一がここからどんな手を使って奇跡の大逆転をしてくれるのか……それが楽しみでね」
「梨花。期待しない方が……」
「ただのゲームよ。それと私の運命を結び付けて考えるほど、浅はかじゃないわよ」
しかし梨花の気持ちとは裏腹に、その後も圭一はゴールできず、最下位を独走しつづけた。
そして、結局そのままお開きとなってしまった。
「あーっはっは。やったね圭ちゃん! 罰ゲームはあの衣装を……あーはっはっははは!」
教室中に笑いが響いた。
そんな中、圭一はサイコロを握り締めたまま、ぎらりと獣の瞳をしていた。
「…………わかったぜ」
突然そうぼやいた圭一に、みなが視線を向ける。
「圭一君? わかったって、何のことかな? かな?」
「ふふふ……このスゴロクに細工をしたヤツが……たった今! わかったぜ」
「圭一さん、もう部活は終わったんですのよ? 今更そんなことを云ってもどうにもなりませんわ」
「くくく、まぁまぁ沙都子。負け犬の遠吠えを聞いてやろうじゃあないの?」
「それもそうですわね。無様な圭一さんがどんな時世の句を読んでくださるのか楽しみですわ!」
「でも、本当にスゴロクに細工をした人がわかったんなら大したもんです。私もずっとわかりませんでしたから」
「ふ、ふへへ、ふふええへへ……へ」
圭一の様子は明らかにおかしかった。よほどあの衣装を着るのが屈辱なのだろう。
圭一は瞼を閉じて云った。
「はっきり云って、どんな方法で俺のゴールを妨害していたのか……それはわからん!」
真剣な表情で云う圭一。
「しかし、誰がそれをやっていたかは……見当がつく! イカサマをしていたやつは確かにいる! そしてそいつは……部活メンバーではない!」
圭一の衝撃発言に、みな驚きの声を漏らす。圭一はかっと目を見開く。
「ふ、その反応が芝居だと云うことはわかっているぜ! みんなは知っていたんだ! 誰がイカサマをしていたか! 魅音に詩音、レナに沙都子に梨花ちゃん! その一挙手一投足を俺は見逃さなかったが、イカサマをしている素振りは全くなかった! それはなぜか。それは……イカサマ師は部活メンバーとは別にいたからだ! そいつは俺の後ろに隠れてイカサマをしていたからだ! そう! イカサマ師は獲物が罠にかかるところを後からほくそえんで見ているものなんだ! だからそいつは俺の後ろからなんらかの方法でおそらくサイコロの出目を操作し、俺をあざ笑いながら! 俺のゴールを阻んでいた! みんなはそれに気付きつつも黙って見逃していたんだ!」
圭一の推理に、みなが唖然となる。
その反応から自分の推理に確かな確信を抱いた圭一は、ばっと席から立ちあがる。右手を開き、顔の前にかざして意味のないポーズをとる。
「そう、殺人犯が現場に戻るように……イカサマ師は常に自分のイカサマを確認しなければならない! しないではおれない! それはもはや業界の掟、いや世界の真理! つまり、そいつは……俺の後ろにいる、お前だあああああああああぁっ!」
吼えながら大きく後を振り返り、びしっと指を刺す圭一!
「そう、お前……が……」
しかし、圭一の推理はそこで途切れた。
なぜなら、圭一の後ろには誰もいなかったからだ。
「ぷっ、くく……あ〜っはっは! 圭ちゃあん。後には誰もいないと思うんだけど、おじさんの気のせいなのかなあ?」
「を〜っほっほ! とんだ名推理ですわね!」
またも教室は爆笑の渦に包まれた。
「み、みんな。そ、そんなに笑ったら、わ、悪いよ……あ、あははは!」
と云いつつ、レナもまた苦しそうにおなかを押さえて笑いをこらえる。
騒がしい教室の中、梨花は一人、さきほどよりも神妙な顔をしていた。
それは、ただの偶然だったのだろう。
だが、梨花は見た。梨花だけには見えた。
圭一が指差した先にいた……ある人物の姿を。
たまたま圭一の後ろにいた、羽入の姿を。
イカサマ師は獲物が罠にかかるところを後からほくそえんで見ているものなんだ!
圭一の言葉が、梨花の頭の中で蘇る。
偶然……全て偶然だ。
しかし梨花は、そんな些細な偶然から……。
羽入に対して、わずかばかりの疑惑を抱いてしまった。
羽入は、常にというわけではないにしろ……梨花と行動を共にしていた。
そしていつも、後ろ向きなことばかり云っていた。
諦めろ、と。期待するな、と。
そう云う羽入が、誰よりもそれを望んでいたことは疑いない。
羽入が悪い奴だとは、思えない。
けれど――だからと云って。
羽入を疑ってしまった今、梨花にはそれだけの理由で信じることは出来ない。
梨花にはもはや、教室に響く喧騒は聞こえていなかった。
3
疑問が確信に変わろうとも、それが真実であると断定できない以上――それは疑心暗鬼となんら変わりない。
だからこそ、梨花は確かめなければならなかった。
繰り返される世界でイカサマを働いていた者がいたとして――羽入が、その犯人かもしれないという疑問をはっきりさせたかった。
――羽入自身も気付かぬうちに惨劇の中枢として機能していた可能性もある。
だから梨花は、あえて羽入を犯人だと云った。
羽入自身にもそれを考えさせるために。
なぜなら、梨花の抱いた疑惑の答え――その鍵は、羽入の心の中にしかないのだ。
だからこれは、それを確かめるための話し合いなのだ。
その話し合いの中で、梨花は見つけなければならない。
惨劇の――解を。
茜色に染まった境内の裏手で、梨花は続きを話し出した。
「強い意志は、強い運命をもたらす」
それは、百を越える世界で繰り返した言葉だった。
「そうなのです。だから梨花を殺そうとする人は、とても強い意志を持っていると云うことになりますです」
羽入の言葉もまた、幾度となく繰り返された言葉だ。自らを犯人と呼ばれてなお、羽入はいつものようにそう云ったのだ。
しかし、そのやり取りが惨劇の核心へと結びつくことは今までなかった。だが今回は違う。ここで立ち止まるわけにはいかない。さらに先へ、踏み出す必要がある。
梨花は繰り出す言葉を一点に集め、その手に握る槍と化して運命に立ち向かう……!
「羽入、あなたは云っていたわね。自分の姿も声も、誰にも見えないし聞こえないと。私と、末期の人間を除いて」
梨花の云う末期の人間とは、雛見沢村に古くから宿る病のことを指している。それは雛見沢症候群と呼ばれる病だ。その病は疑心暗鬼によって症状が悪化し、他人を信じられなくなって反社会的行動に走りやすくなると云われている。そしてその末期に近づけば近づくほど、羽入の気配を感知しやすくなるようなのだ。梨花は羽入からそれを聞き、また自分以外の人物が羽入の気配を感知しているらしいところを何度か見たことから、それを知っていた。
「それが、どうかしたのですか?」
羽入の問いに梨花が答える。あなたは自分が何も出来ないと云っていたけれど――。
「私と僅かな人間に気配を感知させるくらいしか出来ないと云っていたけれど…それは充分に何かが出来ると云えることなんじゃないの?」
返す言葉のない羽入に、梨花が畳み掛ける。
「あなたは自分が思っている以上に、周りの人間に影響を与えているんじゃないの?」
梨花は、自分がそれを云うことで、羽入が傷つくと思っていた。そんな時羽入は、決まっておどおどして困った顔を浮かべるのだ。そして、場を誤魔化すようにあぅあぅあぅ…と云うのだ。
しかし羽入の答えは、梨花の予想を越えていた。
「――そんなこと、知っていますですよ」
羽入は、梨花の言葉を遮って、自ら語りだした。
「本当は、知っていましたです。気づいていたのです。だって、ボクが後をつけまわすと、皆おかしくなってしまうから」
それは、梨花も知っている。
茨城に引っ越していたレナが、雛見沢症候群を引き起こしてしまった時、羽入が側にいたことでそれに拍車をかけ、それが後にレナを惨劇に走らす要因になってしまうように。ただ後を歩いていただけで、圭一の疑心暗鬼を深めて惨劇に走らせてしまったように。詩音の時も、やはり同じように惨劇に駆り立てる一因となってしまったように。
――三人の人物が惨劇を起こす世界において、羽入は彼らの側にいたのだ。
それは考えるまでもなく、羽入が、惨劇を引き起こす要因として機能していたと云うことだ。もちろん、羽入が彼らをつけまわしただけで惨劇が起こるというわけではない。他にも多くの偶然が折り重なってのことだろう。だが、その偶然の中に羽入という要素があったことは間違いなかった。
「でも、それだけじゃないわ」
梨花はさらに続けた。ここからは、今まで一度足りとて立ち入ったことのない領域――しかし避けては通れない、揺らぐ真相を見極めるために、通らねばならない茨の道……!
「あなた――本当はもっと深いところで惨劇に関わっているんじゃないの?」
偶然という一つのピースとしてではなく、必然として惨劇の中枢にいたのではないか。そう問いかける梨花に――なんのことですと困惑した表情を浮かべる羽入。梨花は容赦なく言葉を浴びせる。
「あなたは自分のことを傍観者だと云っていたわね。この――ひぐらしのなく頃に起きる惨劇を眺めている傍観者だと」
そうなのですよ――羽入は顔を逸らして云う。
「ボクはただの傍観者なのですよ。なのに梨花は、どうしてボクが犯人だなんて云いますのですか?」
羽入は顔を横に向けたまま、視線だけを梨花に向けた。
「まさか――梨花は……僕が傍観者のフリをして悪いことをしていたと云いたいのですか? 観客席にいると見せかけて、舞台の上に上がっていたと云うのですか? そうだとしたら、それは――違うのです」
違うのです、違うのですと羽入は何度も頭を振って否定した。
「僕は本当に、何も出来ないのです。確かに圭一達を不安がらせてしまったけど、そんなこと僕は望んでいなかったのです。僕のことを感じてくれるのが嬉しくって、ついていっただけなのです。だから、だから――――…………」
違うのです――俯きながらそう云う羽入。梨花には、羽入の瞳にたまる大粒の涙が見えていた。
「確かに僕も、悪かったのです。でも僕は望んでいなかったのです。あの時も、あの時も……。僕は、生贄なんていらなかったのです。あの時だって、僕は怒ってなんかいなかったのです。だから、罰なんて、必要なかったのに…………伝えられなくて……!」
梨花には、終わりの方はよくわからなかったが、想像はついた。
それは――今よりもっと昔、羽入が梨花と出会う以前の話だろうか。綿流しや数々の拷問が実際に行われていた時代のことだろうか。誰にも見えず、気づかれず、それでも自分の前でむごたらしく殺されていく人々を見続けてきた羽入の――記憶なのだろうか。
羽入の頬を涙が伝わって、雫となって落ちる。
「僕は本当に無力なのです。見ていることしか出来ないのです。だから僕は――」
何かを云いかけた羽入を制して、梨花が云った。
「あなたは確かに――何にも出来ない傍観者よ、羽入」
うっ、としゃっくりを繰り返す羽入の様子に、梨花はためらったが、しかし云った。
「でもね――舞台に立っている誰よりも、舞台に影響を与えるのもまた傍観者なのよ」
その言葉に、羽入が顔を上げた。羽入の顔は、涙で真っ赤に腫れ上がっていた。
「――ど、どういうことなのです」
「云ったでしょう? あなたは自分が思っている以上に周りに影響を与えることが出来ると。それは何も人だけに限った話じゃないわ。惨劇の舞台――この世界全体にまで影響を与えてしまうものなのよ」
そ、そんな――羽入は涙を払って弁解する。
「そんなのは……違うのです」
梨花は否定する。違わないと。
「この世界が――私が体験した並列世界の全てが――【ひぐらしのなく頃に】起こる惨劇の舞台。それが舞台なら、幾度となく私を殺し続けた実行犯……あるいはそれを仕組んだ人物なんて、単なる脚本家に過ぎない。なら犯人は――誰なのかしらね」
梨花の問いに、羽入は答えない。いや、答えられない。
「そもそもこれは一体誰のための舞台だったの? 被害者である私? それとも自己満足の脚本家? 違うわね。舞台は観客のためにあるのよ」
ようやく、羽入は梨花が何を云いたいのか理解した。
「そ、そんなの……滅茶苦茶なのです。違うのです……違うのです!」
溢れる涙を隠さずに、羽入が叫ぶ。
梨花は胸を刺されるような痛みを感じた。しかし、ここでやめるわけにはいかなかった。
「一つ取ってみれば惨劇でも、繰り返されれば喜劇となる。まさか自分の脚本がこうまで何度も繰り返されるとは、脚本家も思っていなかったでしょうね。そう、これは繰り返される惨劇ではなく――惨劇が繰り返される喜劇」
あろうことか梨花は、自らが死を繰り返すこの世界を、惨劇ではなく喜劇と云い切ったのだ。それは、何を意味するのだろうか。
「舞台に立つ役者は気付かない。自分達が体験している惨劇を、喜劇として傍観している観客がいることに――」
「…………違う……違うのです……」
「舞台を眺めていた観客は、たった一人だった。始めて舞台を見た観客は、それが惨劇であることに気付いた。深い悲しみに襲われて絶望した。こんな結末は許せない。直に二回目が始まって、今度はどうやったら惨劇を防げるかと考えた。でもまた惨劇に終わった。三回目では要領を掴み始めて、舞台の楽しみ方を知る。そんなことを繰り返しているうちに、観客は気付く。これは喜劇だと。確かに惨劇は悲しいけれど、それ以外はとても心地よくて面白いものだと。そしていつしか観客は思う。この舞台をずっと見ていたい。例え最後は悲しい結末に終わろうとも……それが、舞台が繰り返される条件なら、それを受け入れようと」
「―――――――違うのです!」
びりびりと大気を振るわせるほどの大きな叫びが……梨花に向かって放たれた。
「どうして……どうして梨花は、そんな意地悪を云うのですか!」
涙ながらの羽入の訴えに、梨花は感情を押し殺して答えた。
「それが多分――答えだからよ」
羽入を傷つけ、泣かせている自分を、梨花は嫌悪していた。よくもまあ、こんな酷いことが云えるものだと自分を苛めた。罪の意識が梨花を襲う。それでも、なおも、梨花は続きを話す。まだ梨花は真実を確かめていない。羽入がそれを認めない限り、梨花の思い込みの粋を出ない。解は――まだ終わってはいない。
「舞台は、本当は一度きりで終わるはずだった。でも、たった一人の観客がそれを許さなかった。舞台は繰り返された。終わることなく、永遠に。退屈しないように、時には姿を変えて――百を越えてなお、舞台は続いた。たった一人の観客の強い意志で」
羽入はもう、言い返す気力を失っていた。涙を拭って、梨花の話に耳を傾けている。
「そう、その観客は――舞台に立つ誰よりも、強い意志と影響力を持っていた」
梨花は云う。
「惨劇が繰り返される喜劇――【ひぐらしのなく頃に】。その犯人は、誰よりも強い意志を持ち、喜劇の続行を望むもの――つまり、舞台の観客――――傍観者。それは、」
梨花は、己の全てをかけて、再びそれを告げた。
「あなたが犯人よ、羽入」
再び静寂が訪れる。
静か過ぎるその静寂は、あたかも世界の終わりを連想させた。
ひんやりとした風が吹き、梨花の髪をなびかせた。
昭和五十八年――異常気象によって、例年よりも熱い雛見沢の六月において、梨花は始めてその冷たい風を感じた。
不思議な感覚だった。
これから夏を向かえ、もっと熱くなるはずなのに。
それとも――自分が知らないだけで、この夏は寒くなるのだろうか。
それは嫌だな、と梨花は思う。夏はやはり、暑いほうがいい。
だらけたくなってしまうような真夏の日差しの中で、仲間達と共に雛見沢を駆け巡る――そんな夏がいい。そしてそこには、羽入もいなければいけないと、梨花は思う。
「――――羽入」
梨花が声をかけても、返事がない。
羽入は深く俯き、梨花にはその表情をうかがうことが出来ない。
沈黙の中、梨花は思う。
羽入のことを――。
羽入は梨花と出会うまで、長い間ひとりぼっちだったのだ。
それは人間の寿命など遠く及ばない、気の遠くなるような時間だ。その時の中では、さきほど羽入が云っていたような辛いことはたくさんあっても、楽しいことなどほとんどなかったのだろう。
さびしかった、なんて言葉では表せない。
人間の寿命をはるかに越える時間を生きている梨花でさえ、羽入の孤独がどれほどつらいものなのか、想像もつかない。
その長い時の果てに見つけた梨花という存在が、羽入にとってどれほどかけがえのない存在なのか――それだけは、わかる。
だからこそ、羽入は梨花と一緒にいたいはずなのだ。
例え惨劇に終わる世界だとしても、それが梨花とずっと一緒にいられる世界なら、間違いなく羽入はそれを選ぶ。梨花や、その仲間達と一緒にいられる世界を、きっと………選び続けてきたのだ。
そうして百年を越えて、羽入と梨花は世界を繰り返してきた。
梨花は、惨劇に挑み、打ち勝つ為に。
しかし羽入は違った。
梨花と一緒にいられる世界を繰り返せればそれでよかった。
そもそも、羽入には――……惨劇に挑む理由がなかった。
世界を繰り返しているのは、実質、羽入の力によるものだ。
だが、それには梨花の承諾もいる。
だからこそ、梨花に納得のいかない死をもたらしてくれる惨劇は、羽入にとってはむしろ都合がいいものだった。
いつしか羽入は、どうせ今回も惨劇に終わるという諦めではなく……どうか今回も惨劇に終わってほしいという願いを持つようになっていたのだろう。
そして、その羽入の願いどおりに、惨劇は起こり続けた。
それが、梨花の辿り着いた――解。
「――――梨花」
静寂を破ったのは羽入だった。その声は、深い闇の中に解けて消えそうなほど儚かった。
「多分、梨花の云う通りなのですよ」
風にかき消されそうなほど弱々しいその声が、梨花の耳に届く。
「僕が……犯人なのです」
羽入ははっきりと、それを認めた。
梨花は、何も云わなかった。
羽入は自らの胸の内を、静かに語りだした。
「僕は、梨花が昭和五十八年を越えれることを願っていますです。でも、それ以上に―――梨花と、梨花の本来の寿命以上に一緒にいられることを、嬉しく思っているのです。梨花だけじゃない。沙都子や、圭一や、レナや、魅音や、詩音……みんなとずっと一緒にいられたらって――いつも、そう思っているのです」
ぽろぽろと涙の雫をこぼしながら、羽入は云う。
「だって、それは――とても楽しい時間だから。だからずっと――ずっと一緒がいいって、そう願ったのです。きっと……誰の意思よりも強く、そう願っていましたのです」
その言葉は、真実だろう。
誰よりも長く、深い孤独を生きてきた羽入だからこそ。梨花や仲間達と、ずっと一緒にいたいというその思いは――誰よりも強いに決まっていた。
「でも――それは梨花も、一緒じゃないのですか?」
顔を上げ、半ば叫ぶようにして羽入は梨花に問う。
「梨花だって、沙都子や圭一達と一緒で嬉しいはずなのです……! ずっと皆一緒で、楽しいはずなのです! 鉄平が帰ってきたり、嫌なこともあるかもしれないけど、最後は殺されてしまうかもしれないけど、それでも幸せなはずなのです!」
それは叫びと云うより、問いと云うより――願いのようだった。
「もし梨花が昭和五十八年を越えたら――この時は永遠じゃなくなってしまうのですよ? 魅音はすぐに卒業して、いずれ園崎家を継ぐことになるのです。詩音も、魅音と一緒に卒業してしまうのです。圭一やレナだって、それからすぐに卒業してしまうのです。そしたらもう、今までみたいにみんな一緒で遊べないのです! 梨花の大好きな沙都子とだって……いつかはお別れする時がくるかもしれないのですよ……」
先ほどと正反対に、羽入が話し、梨花は黙って聞いている。
羽入は涙ながらに梨花に訴え続ける。
「梨花はそれでいいのですか? 僕は……嫌なのです! また一人ぼっちになるのは嫌なのです! ずっとずっと……みんな一緒がいいのです!」
梨花は、平静を装いながらも、内心驚いていた。
普段はおどおどして気弱な羽入が、自分に向かってこれだけ強気に意見を云うことは少ない。いや、初めてかもしれない。それはそのまま、羽入の――ずっと一緒にいたい――という意志の強さを物語っていた。
「僕は……死ぬこともできないのです。きっと、これからもずっと、そうなのです。だから……お願いなのです。梨花、僕と一緒に……ずっと一緒にいて下さいなのです」
羽入は、深々と頭を下げた。
梨花にも、羽入の云いたいことはわかっている。
「――羽入」
梨花が声をかける。
その声に、羽入は頭を上げた。
羽入は期待しただろう。
梨花が優しく微笑んで、うなづいてくれることを。
ずっと一緒にいてくれることを――――。
しかし、梨花は笑わなかった。
口元は強く結ばれ、その瞳には、強い意志が感じられた。
梨花の表情には、あきらかな拒絶の意志が込められていたのだ。
「――――梨花。嫌なのです。嫌なのです。うなづいてくださいなのです。うんと云ってくださいなのです……」
梨花はゆっくりと、首を振った。
「羽入。私は、昭和五十八年の六月を越えたい。夏を迎えて、秋を満喫して、冬を越えて、昭和五十九年の春に辿り着きたい。それだけじゃない。その来年も、再来年も――まだ私の知らない、見たことのない世界を迎えたい。そのために、あなたの力を貸して欲しい」
「僕の……力?」
「あなたが信じてくれれば、それはきっと何よりも強い力になる。どんな運命も打ち砕くことが出来る」
「でもそれは――その先は、いつかは終わってしまう世界なのです。梨花が死んだら終わってしまう、有限の世界なのです。そうなったら……きっともう、戻れないのです」
梨花は羽入の力を借りて世界をやり直している。それには梨花と羽入、二人の同意が必要だ。しかし、もし惨劇を乗り越えたとして、梨花が寿命で死を迎えたらどうなるだろう。梨花は世界をやり直したいなどと思うだろうか。あるいは事故や病気によるものだとしても、梨花が再び羽入の力を借りることがあるだろうか。
ない。
絶対にない。
だからこそ、惨劇が必要なのだ。
誰に殺されたのかもわからない惨劇のままに、梨花は納得のいかない死を強要されなければならない。やり直したいと梨花自身が思える死でなければならない。
それがどれほど残酷なことか……それでも羽入は、梨花と一緒にいたいと云う。
「もう一度聞きますです。梨花……僕と一緒にいましょうなのです」
「ダメね」
はっきりと、梨花はそう云った。
梨花と羽入の意見は――まるで平行線のように、交わらない。
「……梨花は僕が、嫌いなのですか……?」
なんて馬鹿なことを聞いているのだろうか。
梨花が自分を嫌いなわけがない。そんなことは羽入自身が一番よくわかっているだろう。
梨花が羽入を嫌いなわけがない
そんなことを聞くのは話のすり替えに過ぎない。
けれど羽入は、どれだけ卑怯なことを云おうが、とにかく梨花に考えなおして欲しいと思って云ったのだろう。もしかしたら、これで梨花も、少しは考え直してくれないだろうか……そんな淡い期待と共に。
しかし。
「ええ。そうね」
梨花の言葉に、羽入は目を丸くした。
「…………梨花? 今、何て云ったのですか……?」
信じられないという態度で、梨花に問いかける。
「梨花……梨花は僕が……嫌いなのですか?」
梨花は、はっきりと答えた。
「――大ッ嫌いだわ」
嫌悪感を隠しもせず、そう告げる梨花。
わけもわからず立ちすくむ羽入に、梨花はさらに言葉を投げかける。
「あんたはいつもうざったいし、辛気臭いことばかり云うし、私がお気に入りの酒を飲もうとするとすぐに飛んできて騒ぐし……」
呆然とする羽入。その瞳にはさらなる涙が溢れていく。
「困るとすぐにあぅあぅ云ってごまかすし……どたんばたんうるさいし……」
「……なんで、そんなことを、云うのです。梨花が僕のことを嫌いなんて……嘘なのです」
羽入には信じられない。
確かに梨花は、羽入に対して悪態をつくこともあるが、それは梨花なりの愛情表現だ。
だから、梨花が羽入のことを嫌っているなど、嘘に違いなかった。
「嘘じゃない!」
梨花の叫びに、羽入がびくんと肩をふるわせる。
「私は確かにあんたが嫌い。今までは、ただ云わなかっただけよ」
その言葉に、羽入は恐ろしいまでの悪意を感じだ。
今までは云わなかっただけ……?
じゃあ梨花はずっと、羽入のことを嫌っていた……?
羽入に構ってくれる唯一の存在が、実は羽入を嫌っていたなどと……。
それは羽入にとって、何にも勝るショックだ。
死とは無縁のはずの羽入にとっての死刑宣告だ。
「……う、うわあああああああああああああああああああああああ!」
羽入は叫び、逃げるようにその場を去っていった。
「羽入!」
梨花の叫びにも、答えはない。
すでに羽入の姿はなく、辺りには木々を揺らす風の音だけが残った。
「…………………っ!」
梨花の、声にならない叫びがむなしく残響した。
4
「梨〜花〜! どこにいるんですの〜? 返事をして下さいましー!」
突然沙都子の声が聞こえて、梨花はびっくりして返事をした。
「沙都子? ……ボクはここにいるのです」
梨花はようやく思い出した。自分が夕食の買出しに出かけたまま、境内の裏手で羽入とずっと話をしていたことを。いつまでたっても帰らない梨花を心配して、沙都子が探してくれていたようだ。
「みなさ〜ん! 見つけましたわ〜!」
沙都子が後を振り返って叫んだ。
そこには梨花の見知った顔が並んでいた。
「こんな所にいたのか! やれやれ、灯台元暮らしってやつだな」
「おじさんもここは盲点だったよ。最も目に付きやすいところが、最も目に付きにくいってわけだね」
「はろろ〜ん。梨花ちゃま、怪我は……ないようですね」
「私たち、沙都子ちゃんから電話で梨花ちゃんの行方がわからないって聞いて、探し回ってたの。大丈夫だったかな? かな?」
圭一に魅音、詩音、それにレナが次々声をかけてくる。
「全く! 心配しましたのよ! こんなところで何をしていたんですの?」
沙都子がいつもの妙な敬語で話しかけてくる。
言葉の節々から、梨花のことを心配していた気持ちがにじみ出ている。
「みんな……心配かけて、ごめんなさいです」
梨花は素直に反省し、謝罪してぺこりと頭を下げた。
「梨花ちゃん。どうしてこんな所にいたのか……話してくれる?」
優しく問いかけるレナに促されるまま、梨花は云う。
「ボクは…………ある人と、お話をしていたのです」
云いながら、梨花は奇妙な感覚にとらわれていた。
別におかしなことを云っているわけではない……?
「ある人? 誰のことですの?」
「ボクの……家族で、友人なのです」
「り、梨花の家族? 私、そんな方存じませんわよ?」
沙都子の疑問ももっともだ。
なにしろ、その人物のことを知っているのは梨花だけなのだ。
なぜなら、その人物は梨花以外には見えない。
そしてなにより、梨花はその人物について誰かに語ったがない。
奇妙な感覚の正体はそれだった。
梨花は、自分でも驚くくらい普通に……今まで一度も語ったことのないその人物について語っているのだ。
「ねえ、梨花ちゃん。その人って、レナ達の知らないひとなのかな? かな?」
「その女の子のことを知っているのは、ボクだけなのです。でもその子はずっとボク達と一緒だったのです」
「ますます意味がわかりませんわ!」
さじを投げるように言う沙都子の後から、へへっと言う声が聞こえた。
「なるほど。つまり、こいつはミステリーだな!」
圭一だった。
「ふぅむ。梨花ちゃんと常に一緒にいたってことは、ひょっとしておじさんたちが部活をしている時もどこかから見ていたってことかい?」
魅音も興味津々な様子だ。
「そうなのです。みんなの後ろからずっと見ていたのです」
「……私に気取られずに背後を取るなんて、ちょっと信じられないです」
「そ、それってひょっとしてお化けなのかな? かな?」
「お化けじゃあないのです。その子はとっても恥ずかしがりやで、かくれんぼがお上手なのです。だから誰にも気付かれないのです」
「そいつは面白いぜ! その子は部活メンバーを前に、ずっとかくれんぼしてたってことだろ?」
とても信じられないような内容の話だというのにもかかわらず、圭一達は当然のようにそれを受け入れている。
なんだか話が変な方向へと転がっている……そう思いながらも、梨花は答えた。
「…………そうなるのです」
またもへへっと鼻をならす圭一。
「こいつをどう思う、魅音!」
「そうだねー、これはつまり、おじさん達部活メンバーに対する挑戦状だね!」
「その通りだぜ! そして俺達最強部活メンバーは、売られた喧嘩は必ず買う!」
「ちょ、ちょっと圭一君に魅ぃちゃん! まずは梨花ちゃんからちゃんと話を聞こうよ」
「…………」
「ねえ、梨花ちゃん。よかったら、その子のことを教えてくれないかな?」
梨花はまたも、予想だにしなかった展開に驚いていた。
まさか、羽入について誰かに聞かれる時がこようなどと、思いもしなかった。
羽入は基本的には梨花としてコミュニケーションがとれないのだ。誰も知らないはずの羽入のことを……レナは今、梨花に質問している。
どうしてこんな展開に……?
梨花は自分自身に問いかける。答えはとっくに出ているのに、確認せずにはいれない。
それは、他ならぬ梨花が羽入のことを話したからだった。
そうか、と梨花は気付いた。
羽入は確かに、自分から誰かと触れ合うことは出来ないけれど……梨花が間に立ってやれば、意志を伝えることも、会話だって出来るのだ。どうしてこんなことに気がつかなかったのだろう。そもそも梨花は、オヤシロ様の生まれ変わりと云われ、古手家はオヤシロ様と人間をつなぐやくわりを持っていたんじゃないか。そして羽入は、自分は村の老人たちが崇めるオヤシロ様に間違いないと、そう云ったことがある。本当にどうして気付いてあげれなかったのか。梨花や仲間達の輪に加わりたくて、それでも眺めているしか出来なかった羽入。梨花は、そんな羽入を仲間達に紹介してやることができた。――そうするべきだったのだ。
いつのまにか、梨花は進んで羽入のことを話していた。
「……その子は、ずっとひとりぼっちだったのです。でも、ボクにだけは声をかけてくれて、その時からボクとその子は家族で友人になったのです。でも恥ずかしがりやさんで、ボク以外の人には見えないようにしていたのです……。だからその子には、ボクしか、一緒にお話できる相手もいなかったのです」
「そっか……それで、さっきはその子とどんなお話をしていたの?」
「さっきはボクとその子の意見が対立していたのです。お互いの意見は決して交わらなくて……ボクはカッとなって、大嫌いって云ってしまったのです。そうしたら、その子は……」
「隠れちゃったんだね……」
梨花はこくんと頷く。
圭一が云った。
「なあ、梨花ちゃん。梨花ちゃんは、本当にその子のことが嫌いだったわけじゃないんだろ?」
梨花は一瞬迷ったが、答えた。
「いえ、大嫌いなのです」
「梨花ちゃん……」
圭一の顔が曇る。
「でも、大嫌いだけど……それ以上に、大好きなのです」
「よく云ったぜ、梨花ちゃん!」
圭一は満足げに微笑むと、梨花の頭をわしわしと撫でた。
「…………みぃ」
梨花は対処に困って、いつものそれを云った。こういう誤魔化し方は、まるで羽入だな、と思った。
「梨花ちゃんの云ったことは、すごく大事なことだよ」
レナが言った。
「どんなに仲が良くたって、お互い好意しか持っていないなんて有り得ないもの。そこには多かれ少なかれ、嫌いだって思う気持ちも絶対にあるはず。だから、時には喧嘩だってすることもある。でも、その嫌いだって気持ちを否定するより、それを認めて、それでも相手のことが好きだって云えることが大切なんだよ」
「レナ……良いことを云うじゃねえか! なら、梨花ちゃんはその子にそれを伝えて仲直りしなきゃダメだ。じゃないと、その子は梨花ちゃんの気持ちを誤解したままだ。だから、ちゃんと話さなきゃダメだ!」
「……でも、どこにいるのかわからないのです。それに、もう一度会っても、お互いの意見が交わることは多分、ないのです」
しょんぼりして云う梨花に、レナが云った。
「それでも、梨花ちゃんはもう一度話し合うべきだと思う。お互いが納得するまで、ちゃんと話し合わなきゃダメだと思う」
「うんうん。おじさんもそう思うな。それに、どこにいるのかなんて、部活メンバーにかかればすぐに見つかると思うしね!」
「そうですわ! それに、梨花にそんな友人がいたなんて聞いてませんわよ! 家族とまで云うのでしたら、なんとしてでも見つけ出して顔を見ないことには、気になって夜も眠れませんわ!」
「みぃ。その子は沙都子の寝顔を何度も見ているのです」
「なな、なんですのそれは? どういうことですの?」
「沙都子があんまり可愛いから、添い寝してぷにぷにのほっぺたにほお擦りしていたのです」
「ゆ、許せませんわ! 私の寝ている隙に!」
ぷんぷんと怒り出す沙都子の頭をなでる詩音。
「沙都子は好き嫌いばかりするから、隙が多いんですね」
「か、関係ありませんわ!」
ますますかっかする沙都子の横から圭一が云った。
「よし、じゃあちょっと整理するぜ。梨花ちゃんはその子と喧嘩しちまって、その子はどこかに隠れちまった……。しかもその子は極度の恥ずかしがり屋で、かくれんぼのプロときた。こう云うことだな?」
「プロどころか、神様なのです」
「かくれんぼの神様か、そりゃあすげえぜ! それを聞いちまったら、熱くならずにはいられねー……。その子を見つけないことには帰れねぇ! そうだろみんなぁ!」
「くっくっく! 面白いねえ。ここは一つ、梨花ちゃんの為にも……そして我が部活の名誉のためにもその子を見つけるしかないねぇ!」
「うんっ。レナもそう思う! その子を見つけて、梨花ちゃんと仲直りさせてあげよう!」
「沙都子の将来のねぇねぇとしては、力を貸さずにはいられないですね」
「…………釈然としませんわね……」
「沙都子! お前も梨花ちゃんの親友ならいつまでもうじうじ云ってるんじゃあねえ!」
「う、うじうじなんかしてませんわ! 圭一さんに云われるまでもなく、私が一番にその子を見つけてご覧に入れますわ!」
「その意気だぜ! ようし、梨花ちゃん。まずはその子の名前と特徴を教えてくれ」
「………………」
梨花は呆然としていた。
本当に、どうしてこんな展開になってしまったのか。
そもそも、羽入はかくれんぼのプロどころではない。梨花にしか見えないのだ。見つけられるはずがない。
しかし…………。
梨花は仲間達の顔を見る。
この頼もしき仲間達なら、ひょっとしたら……羽入を見つけることだって出来るかもしれない。そんなバカな、と思いながらも、心のどこかで期待している。
梨花は、くすりと笑みをこぼした。
「……………面白いわね。まさか、こんな展開になるなんて」
そして梨花は羽入の名前と容姿を説明した。
巫女装束を来た薄紫色の髪をした女の子で、頭には二本の角が生えている、と。
「つ、角ですの? ずいぶん変わった物をお生やしですわね……」
「あ、でもレナは可愛いと思うな! はう〜羽入ちゃんお持ち帰り〜!」
「あっはっは。レナにお持ち帰りされる前に見つけないといけないね!」
「出来れば本格的に暗くなる前に見つけたいところですね」
「なーに、このメンバーなら三十分とかからずに見つけてやるさ!」
みんなの頼もしい声が響く。
「みんな、ふぁいとおー☆なのですよ!」
「おぉおおおおおおおおおっ!」
力強い叫びがこだまする。
その時だった。
梨花がそれに気付いた。
茂みの影から現れた人影――――羽入の姿に。
「…………羽入」
その一言に、全員がはっとして梨花の視線を追う。
羽入はおどおどした様子で、お決まりのそれを云った。
「…………ぁぅあぅあぅあぅあぅ……」
5
「羽入! 私は……」
「いいのです、梨花。全部聞いていましたのです。梨花の気持ちはわかったのです。でも、僕は自分の意見を曲げるつもりはありませんのです」
羽入はどうやら、茂みに隠れて話を聞いていたらしかった。
梨花は羽入の方を向いて、はっきりと云った。
「聞いていようが聞いていまいが、私は云うわよ。羽入、私はあんたのことが好き」
「梨花……」
「例えあんたが何者でも、何をしていようとも、好きだと云えるわ」
それは紛れもない、梨花の本心からの言葉だった。
気まずそうに俯く羽入。
しばしの沈黙の後、成り行きを見守っていた圭一が云った。
「……いるのか? そこに?」
「何も見えませんわよ?」
「でもいるのです。見えないだろうけれど、確かにそこにいるのです」
そう、確かに羽入はそこにいる。だが、梨花以外にその姿は見えていなかった。
「羽入ちゃんは、何て云ったの?」
「ボク達の話を聞いていたと。それと、意見を曲げるつもりはないと、云っていますです」
「へえ、なかなか強情ですね」
「ふぅむ。自分の意見を曲げないのは、なかなか立派だねぇ」
仲間達が各々感想をもらす。羽入の姿は見えていないはずなのだが、梨花の言葉を信じての発言だった。
「なあ、梨花ちゃん。よかったら俺達に教えてくれないか。梨花ちゃんと……羽入の、対立してる意見ってのをさ」
「――梨花」
羽入が云った。
「僕は別にいいのですよ。梨花が話したければ」
「羽入……」
梨花は、それを圭一達に話すことにした。
もちろん、理解できる範囲でわかりやすくだ。
「ボクと羽入は……今、夏休み中なのです」
「ずいぶん早い夏休みですわね……」
「そうなのです。しかもそれは、永遠に続く長い長い夏休みなのです……」
「それはまた豪勢な夏休みだな!」
「ボクは、もう夏休みは終わりにしたいのです。名残惜しいけど、仕方ないことだと思うのです。でも羽入は、ずっと夏休みがいいと云いますです」
「気持ちはわかるぜ! 俺だってずっと夏休みが続けばって思うよ。でもいつかは終わっちまうんだから、ダダをこねても仕方ないぜ」
「でも、圭一。もしも夏休みを永遠に繰り返す方法があったとしたら、あなたはどうする?」
「…………!」
梨花の問いに、圭一だけでなく仲間達全員が考え込む。
その様子を、羽入はいつものように黙って眺めている。
「そ、そんなこと出来るわけありませんわ」
「でも羽入には出来るのです」
「…………だとしたら、そりゃあ、すげーよな」
「圭一。あなたなら、どうする?」
「う〜ん、そうだな。確かにそいつは魅力的だけど……やっぱり嫌だな」
あっさりと、圭一は云った。
「だって、ずっと同じ夏休みじゃあ、つまんないと思うしな!」
「うん。レナも同じかな……。レナのお父さんも、長い間働かずに家にいたけど、とても楽しそうには見えなかったし。ずーっと夏休みじゃあダメだ思うかな、かな」
レナもまた、ずっと続く夏休みを否定する。
「激しく同意ですね。私も似たような経験があるからわかりますけど、だらだらしてるより、前を向いて進む方がいいです」
詩音も同じ意見だった。
「う〜〜ん、おじさんはちょっと考えちゃうけど、でもやっぱりみんなと同じかな」
「私もですわ! 夏休みもいいですけど、その後の秋や冬を迎えられない夏休みなら、願い下げでございますわ!」
魅音も、沙都子も。
羽入の意見を、否定した。
「…………梨花は、ずるいのです」
羽入が、梨花にしか聞こえない声で云う。
「ずるいのです……ずるいのです……ずるいのです……。そんなことを云われたって、僕は……どうしようもないのです。惨劇を望んでしまうのです。繰り返しを望んでしまうのです。だから、梨花に力は、貸せないのです……」
「…………」
梨花は思った。
やはり羽入を説得するのは無理なのだろうか。
お互いの意見は平行線のまま……仲間達の意見も、梨花の上をなぞるだけなのだろうか。
「…………羽入!」
梨花は驚いた。
羽入もだった。
羽入の名を呼んだのは、梨花ではない。
圭一だった。
圭一が、羽入の方へ視線を向けていたのだ。
見えているはずがないのに、だが、その視線は確実に羽入を捕らえ、そして言葉を届けた。
「俺はお前のことを詳しくは知らない。お前にも、夏休みを続けたい事情があるんだろう。でもな、どんな事情があろうとも、夏休みはいつか終わるんだ!」
圭一が叫ぶ。
「だからそんな、わがままを云ってんじゃあねーっ!」
羽入は、あっけにとられたように、圭一を見ている。
圭一は、見えていないはずの羽入に向かって、自分の考えを話す。
「いいか、夏休みが終わってもな、その後にだって楽しいことはいっぱいあるぜ! 俺はまだ見たことないけど、雛魅沢でも秋の紅葉はきっと綺麗だし、冬に雪が降れば雪合戦ができるぞ! 春の陽気も最高に違いない! そしたらまた夏が来る! 河で遊ぶもいいし、日焼けするのもいいだろうぜ! だけどな、いつまでも同じ夏休みをだらだらと続けてたら、秋も冬も春も、次の夏休みも来ないんだ! そんなのはダメだ! 名残惜しくても前に進まなきゃいけない! つらいことがあるかもしれないが、それを拒んでいたら本当に楽しいこともやってこない! それにな、ずーっと夏休みが続いたら……せっかくの夏休みの価値がなくなっちまうぜ!」
圭一は、すっと右手を差し出した。
えっと、羽入は戸惑った。
「来いよ! いるんだろ、そこに? ずっとかくれんぼしてとじこもってるより、俺達と一緒の方が楽しいぜ! 絶対に! だからよ、俺の手を掴め!」
羽入は、どうしていいのか、わからずにおどおどしている。
だが、それは普段のおどおどとは違う。
初めて、梨花以外の人から、声をかけられた。
勘違いでも、錯覚でも、幻覚でもなく。
本当の羽入に声をかけられ、手を伸ばされた。
だから、今の羽入のおどおどは、長く自分が否定し続けてきた……期待と不安が入り混じったものだ。
「お前がかくれんぼのプロでも、神様でも! お前が俺の手を掴んでくれたら、俺は絶対にお前を見つける! だから、来い! 羽入!」
云っていることが滅茶苦茶だ……羽入は思う。
何をどうしようと、自分の姿は見えるわけがない。そもそも、圭一と羽入が触れ合うことは出来ない。手を掴んだって、きっとすり抜けてしまう。
でも。
ひょっとしたら、それは……羽入が、信じていなかったからではないのか。
梨花の前では否定したが、羽入は、幾多の世界で圭一が奇跡と呼べるほどのことをしてきたのを見ている。
だから、もしかしたら……。
信じても、いいんじゃないだろうか。
圭一だけではない。沙都子もレナも魅音も詩音も、そして梨花も……きっと信じてくれている。羽入がそう信じることが、何よりも奇跡を生むのではないか。
梨花は、羽入を犯人だと云った。
それは――羽入が誰よりも強く惨劇を望み、繰り返される世界を望んでいたからだと。
確かにその通りだ。
そのように云われれば、羽入は反論できない。認めるしかない。確かに自分はそれを望んでいたと。羽入がそれを認めて、真に梨花が惨劇に打ち勝つことを望み、願い、信じれば……それは惨劇に打ち勝つことに繋がるかもしれないとも思う。
そして――そんな羽入を大嫌いだと云った梨花。
大嫌いだけど、それ以上に好きだと云った梨花。
力を貸して欲しいと云った梨花。
――――その梨花に、答えてあげたいという気持ちはある。
しかし……それと、今のこの状況は別だ。
羽入が、差し出された手に自分の手を伸ばしたところで……圭一にそれを掴めるわけがない。絶対にない。信じたってどうにもならない。だから、手を伸ばせない。
期待して、裏切られることはつらい。
だから期待しない。惨劇に終わる世界を予定調和と割り切るように。
「羽入」
それは梨花の声だった。
「覚えている? 前の世界でも、同じようなことがあったことを」
羽入はすぐに思い至った。
それは――――沙都子の叔父である鉄平が、沙都子を虐待していた世界でのことだ。
圭一を始め、仲間達は沙都子を救う為に児童相談所に訴え続けたが、沙都子は助けを拒み続けた。しかし沙都子は、最後には勇気を振り絞って助けを求めた。伸ばされた手を、しっかりと握り返した。もし、あの時沙都子が助けを拒み続けていたら、間違いなく結果は違っていたはずだ。お互いを信じあい、手を伸ばしあうこと……それが奇跡に繋がる。
そう思ったとき、羽入の手は自然と伸びていた。
羽入自身も、自分の行動に驚いていた。
自分はこんなにも簡単に、手を伸ばすことが出来たのか……?
羽入はいつも、梨花や、部活メンバーの輪に入りたいと思っていた。
でも、そんなことは出来るわけがないと決め付けていた。
しかし今、確実に、そんな羽入に――手が伸ばされている。
こっちへ来い、と。
なら――。
それを拒む理由なんて、あるわけがない。
拒めるわけが、なかった。
おずおずとだが、羽入は手を伸ばした。
触れても気付かれなかったらどうしよう。今すぐこの手を引っ込めたい。
けれど、今しか……今しかない。
互いが互いを信じあえば、奇跡が起こせるはず……!
そして――――――。
がっしりと、羽入の右手を、圭一が掴んだ。
そのか細い手を、力強く握り締めた。
「……あ……ぅ……」
言葉にならない羽入の声が、聞こえた。
梨花に、羽入のその歓喜の声が聞こえた。
いや、梨花だけではない。
圭一にも、レナにも、沙都子にも、魅音にも、詩音にも、みんなに聞こえた。
みんなが羽入を受け入れ、羽入もまた、勇気を振り絞ってその輪へ入った。
こんなにも……簡単なことだった。
奇跡は、こんなにも簡単に起きたのだ。
手を伸ばしあえば、その手はすぐにでも交わることが出来た。
けれど羽入は、長い間それに気付けなかった。
梨花も、仲間達も……。しかし今、その手は硬く握られた。
「いい……のですか」
喜びを抑えきれず、しかし不安の入り混じった声で云う羽入。
「僕は……角が生えているのですよ? 化け物みたい……なのですよ」
「そんなことないよ」
優しい言葉をかけたのは、レナだった。
「羽入ちゃん、とっても可愛いよ! そんな風に卑下する必要なんか、全然ない!」
あぅ……と、羽入の顔が歪む。
そんな羽入に、
「ごめんね……」
と、レナは云った。
「いいのです……僕は……嬉しいのです……」
涙を流す羽入。しかしそれは、悲しみのものではなく、嬉し涙だった。
「羽入。お前は俺達の仲間だ!」
恥じることなく、圭一が云った。
そして――。
「僕は……羽入」
羽入が――。
「よろしくおねがいしますなのです……みんな」
改めて、みんなに自己紹介した。
誰ともなく、拍手が始まっていた。
その暖かな拍手の合唱は、いつまでも鳴り響いていた。
ひぐらしの合唱よりなお大きく、なお暖かく――――。
それは傍から見れば、一人の少女が友人を紹介したという、それだけのこと。
言葉にしてみれば些細な出来事かもしれない。
しかし、それは間違いなく奇跡なのだ。
決して、その奇跡だけで、繰り返される惨劇に打ち勝てるというわけではないだろう。
しかし、それでも――願わずにはいられない。信じずにはいられない。
この奇跡が、惨劇に打ち勝つ道へと繋がることを。
<<了>>
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