イメージングマイノリティ
1
ボクは恋をしてしまった。
同じクラスの女の子――神南由香ちゃんに。
今までも廊下ですれ違うたびに、なんとなく気になっていたんだけど……それが恋だとは思っていなかった。でも、六年生になって、ようやく同じクラスになれて、初めて話をして……それで、自分の気持ちに気づいてしまった。
ああ、好きなんだと。
ただ話をするだけでも、胸がどきどきしてきて、顔が赤くなってしまう程に。
どうしようもないくらい、由香ちゃんのことが大好きなんだと気づいてしまった。
出来ることなら、この思いを伝えたい。でも、いきなり好きだなんて告白しても、由香ちゃんを困らせてしまうだけだろう。
だからまずは、友達から。
由香ちゃんと友達になって、仲良くなることから始めようって、そう思った。
そう思ったんだけど……。
ボクは元々人見知りだったし、今までも一人でいることが多かったから……女の子と友達になるには、どうしたらいいのか……わからなかったんだ。
それでも勇気を振り絞って、何度か話しかけたりしているんだけど……友達と言えるほど仲良くはなれていない。
でも、それでも、一つだけ気づいたことがある。
それは、いつも由香ちゃんにベッタリ付き纏っている女の子――秋月紀伊子ちゃんのこと。
由香ちゃんはどちらかというと……というか、かなり気が強いほうなんだけど、紀伊子ちゃんは正反対で、気弱でいつもおどおどしているような女の子だった。
端から見ているだけでも、二人の関係は明白だった。
脆弱な紀伊子ちゃんを、しっかり者の由香ちゃんが守ってあげている……まさにそういう関係。そんな関係だからこそ、由香ちゃんは紀伊子ちゃんに手一杯で、他のことにまで気が回らないんじゃないだろうか……? 紀伊子ちゃんがいる限り、ボクのことなんて気にもしてもらえないんじゃないだろうか……? そんなことを考えるたびに、ボクは自分の中にどす黒い何かが渦巻いているような感覚を味わっていた。それはとてつもなく不快な感覚なのだけど、それでも、どうしようもなく、こう考えてしまうんだ。
――紀伊子ちゃんさえいなければ。
紀伊子ちゃんさえいなければ、由香ちゃんはボクを見てくれる――
それは、何の根拠もない憶測だったのだけど。
でも、いつしかボクには、由香ちゃんと楽しそうに話している紀伊子ちゃんの笑顔が、とてつもなく嫌なものに見えるようになってしまっていたんだ。
まるで――そう。
ボクが由香ちゃんに恋していることを知っていて、そんなボクを紀伊子ちゃんがあざ笑っているかのような……ボクを近づけまいと、必要以上に由香ちゃんにべったりしているような……あれはそんな邪悪な笑顔なんじゃないかって……。
――くやしかった。
勝手な思い込みなのかもしれないけど、紀伊子ちゃんにバカにされている気がして、大好きな由香ちゃんを独り占めにされて……くやしかった。
紀伊子ちゃんさえいなくなれば――その想いが日に日に強まっていくのを感じていた。
そして、そんなある日のことだった。
朝の会で、担任の先生の口から、ボクはそれを聞かされたんだ。
ある女の子が、盲腸で入院したということ。
しばらくは学校にこれないだろうということ。
そして、その女の子が、神南由香ちゃんだと知って、ボクは……。
チャンスだと、そう思ってしまった。
なんのチャンスかって、それは、もちろん。
由香ちゃんから紀伊子ちゃんを引き剥がす絶好のチャンスだって……そう思ってしまったんだ。
2
紀伊子の様子がおかしい……。
やっと退院して一緒に学校へ通えるようになったってぇのによ。
――お化けみたいにぼうっとした顔で歩いてやがる。
そういやあ、お見舞いに来てくれたときも、どこか元気がなかったような気がする。
紀伊子はあまり感情を表に出す方じゃない。だがよ、だからって感情がないわけじゃねえんだ。ただ、紀伊子は自分の感情をさらけ出すのが苦手だって、それだけのことなんだ。その紀伊子がこんなにわかりやすく憔悴してるなんざ……尋常じゃねぇ。まさか、オレが入院している間に、キーコに何かあったんだろうか。
「紀伊子……悩み事でもあるのか?」
「ううん、なんでもないよ、由香ちゃん」
ごまかすように、えへへと笑う紀伊子。
でも、オレは知ってしまった。
教室へ入ったオレは、紀伊子の机に書かれていた大量の落書きを見てしまった。
「あ、あはは」
紀伊子は照れ笑いのようなものを浮かべながら席について、机に消しゴムをかけ始めた。
どういうことだ……これは。
なんでもないの、と言う紀伊子。
「なんでもないことないだろ……紀伊子……お前、苛められてるんだろうが!」
黙ってしまう紀伊子。弱弱しく消しゴムをかけながら、だいじょうぶ、と繰り返している。
何が、大丈夫なもんか。
両目一杯に涙を溜めて、今にもわんわん泣き出しそうな顔で、なに言ってやがんだよ……。
そんなの全然、大丈夫そうには見えねえよ……。
もう、本当に、なんで紀伊子はこう、変なところで頑固なんだろうか。
苛められてるなら苛められてるって、助けてほしいって、言ってくれりゃあいいのに。
だが、紀伊子はきっと、入院しているオレに心配かけさせまいとして、無理に明るく振舞って、お見舞いにまで来てくれていたんだ……。
くそ……オレは!
オレは、友達が苛められてたのに、気づけなかった!
許せねえ……自分自身のふがいなさが、そして何より。
紀伊子みたいないいやつをひどい目に合わせている野郎を、絶対に許せねえ。
「誰がやった!」
オレは声を張り上げて教室を見渡した。
へらへらと笑っていた。
どいつもこいつも。
笑うか、視線を逸らして他人の振り。
それは、つまり。
事実上、クラスの全員が紀伊子への苛めを黙認しているってことだ。
「誰がやったって聞いてるんだ!」
誰も名乗り出ない、ただ、へらへらと笑っている。
「上等だ……名乗り出る気がないってんなら、嫌でも引きずり出してやるぜ」
オレの発言で教室の雰囲気が変わる。
その場にいた誰もが、オレに敵対の視線を向けてきやがった。
と、そのときだった。
「由香ちゃん、ちょっと」
突然、そんな言葉と共に腕を引かれた。
「お、おい……芽衣子か」
腕を引いていたのは、オレの数少ない友達の一人、竹田芽衣子だった。
芽衣子はオレを廊下へ連れ出して、そのまま人気のないところまで引っ張って行った。
「この辺りまでくればいいかな」
確認するかのように言って、芽衣子はオレの手を離した。
「芽衣子、どういうことなんだ?」
「……それが……」
芽衣子は簡潔に、オレが入院していた間に何があったかを教えてくれた。
オレが盲腸で入院してすぐに、紀伊子の机に落書きがされるようになったらしい。それ以来、紀伊子の私物にたびたび悪戯がされるようになり、それを見ていたクラスメート達も、いつしか紀伊子を苛めるようになっていた。誰も止めようとせず、苛めはどんどんエスカレートしていった。そして、今では紀伊子を苛めるのが当たり前になってしまったらしい。
「なんだよそれ! なんでそんなことに……紀伊子が何をしたってんだよ!」
「それはわからない。理由なんてないのかもしれない。ただ、今は落ち着いたほうがいい」
「落ち着いていられるかよ! オレは今すぐ教室へ戻る。そして紀伊子を助ける」
その場を去ろうとしたオレの肩を、芽衣子がぐっと掴んできた。
「離せよ芽衣子。オレは紀伊子を助けに行くんだ」
振り払おうとするが、芽衣子はすさまじい力で肩を握り締めてくる。そして、真っ直ぐにオレの目を見据えながら、冷たく言い放った。
「助けるって言ったって、具体的にどうする気なのさ」
「どうするって……そりゃあ……」
はっとした。
正直言って、どうしたら紀伊子を助けられるかなんて、考えていなかった。
オレが肩を落とすと、芽衣子も握る力を弱めて、続きを話し出した。
「紀伊子ちゃんを助けたいって気持ちはわかるよ。でも、闇雲に行動したって、苛めを終わらせられるわけじゃないんだ。下手をしたら、紀伊子ちゃんへの風当たりが強まる可能性だってある。それに、由香ちゃんまで苛めの標的にされることだって在り得るんだよ」
「……そうかもしれねえ」
芽衣子の言うことは、確かに正論だった。少なくとも、オレはそこまで考えてなかった。
「だがよ、なら、どうしろってんだ?」
そんな正論を言うからには何か策があるんだろうなという感じで、オレは芽衣子に聞いた。
芽衣子は一瞬目を瞑り、言葉を選ぶようにしてこう言った。
「確実に紀伊子ちゃんを助けられる策を考えるんだ。それまでは、動くべきじゃない」
「紀伊子を見殺しにするってのか!」
「そうじゃない。いつか紀伊子ちゃんを助けるために、今は耐えなければいけない時だということだよ。感情のままに動くだけじゃ、紀伊子ちゃんを危険にさらすだけだ。蛮勇は勇気じゃない。勇気と無謀を取り違えてもいけない。本当に紀伊子ちゃんを助けたいと思うなら、今は……動かないほうがいいんだ」
そう言って、芽衣子はオレから視線を逸らした。
自分だって辛いんだ、そう言わんばかりに。
「だから、今は見捨てろってのか」
もう一度、確認するかのようにオレは言った。
芽衣子は顔を曇らせながらも、こくんと頷いた。
確かに、芽衣子の言うとおりなのかもしれない。
オレがブチ切れてクラス中に喧嘩を売ったところで勝ち目なんざねえし、何より紀伊子を助けられるわけがねえ。
……だが。だがよ!
「お前――紀伊子が苛められてる間、そうやって理屈こねて見てただけなのかよ」
オレには、どうしてもそれが気になっていた。
芽衣子は長い沈黙の後、おずおずと口を開いた。
「……それは、だって、仕方ないじゃないか」
「仕方ない、だと?」
キーコが、苛められてるんだぞ?
それを……仕方ないなんて言葉ですませるってのかよ。
オレがそう言うと、芽衣子は今度こそ黙ってしまった。
「……見損なったぜ」
再びその場を去ろうとするオレの肩を、芽衣子はまたも掴んできた。
「ま、待ちなよ。ボクの話を聞いていなかったのかい? 絶対に紀伊子ちゃんを助けられる策が見つかるまで、動くべきじゃないんだよ!」
「そんなの……知らねえ!」
オレは今度こそ、芽衣子の手を振り解いた。
「友達が泣いてるんだ……苦しんでるんだぞ! それを見殺しにしていい理由なんざ、オレは知らねえ!」
オレは芽衣子に背を向けて、言った。
「……友達だと思ってたのに」
控えめに、え? という芽衣子の声が聞こえた。
「オレが入院してたとき、見舞いに来てくれたのは紀伊子と……お前だけだった」
そのままオレは教室へ向かった。
芽衣子は、もうオレを止めようとはしなかった。
教室へ戻ると、男子達がよってたかって紀伊子を苛めていた。
紀伊子は、机に顔を伏せて……声を上げて泣いていた。
そんな紀伊子に、男子達は、なおも追い討ちをかけるかのごとく、泣いているキーコをはやし立てている。
こいつら――もう謝ったって許さねえぞ!
「やめろお!」
オレは紀伊子の前に立ちふさがった。
すぐさま男子達がオレの周りに集まってくる。
「なんだよお、邪魔すんのかよお」
「お前には関係ないだろうが。かっこつけてんじゃねーよ」
「つうかさあ、俺たちはこいつのためにやってんだぜ? 泣き虫のこいつを教育してやるために」
「御託はいい」
男子達の言葉を遮って、構えを取って言う。
「キーコを苛めるやつはオレが相手だ」
途端、ぎゃははと笑い声があがった。
「おいおい、聞いたかよ。こいつ本物のバカらしいぜ。一人で俺たちに喧嘩を売るらしい」
「へっ、前から気に入らなかったんだよ。女のくせに調子にのりやがってさ」
「おい、みんなやろうぜ」
クラスの男子達がぞろぞろと集まってくる。
そして、残った生徒達は遠巻きに眺めているだけ。
ふん、上等だよ。
「ゆ、由香ちゃん……。わ、私のことは、い、いいから」
オレの後ろから、紀伊子が嗚咽をこらえながらそう言ってくる。
「優しいなあ、紀伊子は。だがよ、そんな紀伊子を苛めたこいつらを、オレは許せねえんだよ!」
オレは目の前にいた男子を殴り飛ばした。
顔面に拳が炸裂した男子は、ぎゃあと短い悲鳴をあげて吹っ飛んでいった。
刹那、他の男子達がオレに飛び掛ってくる。
「――こいよ。てめえら全員、鼻が擦り切れるまで土下座させてやんぜ」
一度に数人の男子達がオレの体を抑えにかかってくる。反撃もむなしく、オレは羽交い絞めにされ、顔を殴られ、腹を蹴られて――。
「やめろおおおおおお!」
その叫び声がなかったら、オレは一方的に殴られ続けて、サンドバックになっていただろう。その場にいた全員が、ぴたりと動きを止めて、声の主を見た。
はあ、はあ、と荒い呼吸を繰り返しているそいつは――教室のドアに立っているそいつは――竹田芽衣子だった。
「悪いのは……ボクなんだ」
芽衣子は、顔を伏せながら、そう言った。
「一番最初に、紀伊子ちゃんの机に落書きしたのは、ボクなんだ」
芽衣子は、ぎゅっと拳を握り締めて、体を震わせながら、そう言った。
「教科書やノートをカッターで切ったのも、上履きをゴミ箱に隠したのも、全部ボクがやったんだ。そうすれば、やがてみんなが真似し出して、紀伊子ちゃんを苛めて孤立させてくれるって、そう思ったから……そう願ったから……」
悪戯がばれたこどもみたいな顔で、芽衣子は、
「……ごめんなさい」
そう言って、一筋の涙を流した。
3
由香ちゃんと仲良くなりたかった。
ただ、それだけだったんだ。
なのに、どうして、こうなってしまったんだろう。
由香ちゃんが怒っている。
どうして怒っているんだろうと思う。
「なんだよそれ。ごめんなさいじゃねえだろ。それで許せってのか? おい!」
ぐい、と。
由香ちゃんに胸倉をつかまれる。
ボクは放心したようになすすべもなく、体を宙に浮かせる。おなかが出ているのがわかったけど、隠す気にもなれなかった。文字通り、地に足がついていなかった。
由香ちゃんが凄い剣幕でボクをにらんでいる。その瞳は、怒りの炎が渦巻いているようだ。
ああ、そうか。
ボクは、由香ちゃんの友達である……紀伊子ちゃんを苛めたんだから、それで怒られているんだ。なら、怒られて当然じゃないか。なんで、そんな簡単なことが、わからなかったんだろう。そんなの、ちょっと考えれば、わかることなのに。悪いことだって、わかっていたはずなのに。それでも、見えない何かがボクの背中を押して……取り返しのつかないところまで来てしまっていた。いや、それは卑怯な言い訳だ。結局、ボクは、自分の意思で紀伊子ちゃんを苛めて、その結果が、これなんだ。
さっきまで紀伊子ちゃんを苛めていた連中まで、ボクを責めてくる。
全部お前が悪いんだ、と。
泣いたくらいで許されると思うなよ、と。
これからもっとひどい目に合わせてやるからな、と。
そうだそうだ、と次々に声が上がる。
ボクは宙ぶらりんの格好で、どこか他人事のように、それを聞いていた。
違う世界に迷い込んでしまったような、奇妙な感覚。
ここにいるはずなのに、本当はどこにもいないような。
自分なんて、いなくなってしまえばいいって、そんなことばかり考えている。
ああ、知っている。
ボクはこの感覚を知っている。
この嫌な感じは、孤独。
みんなの中にいても、自分だけ独りぼっちな――集団の中の孤独。
独りぼっちは、もう嫌だった。
だから、謝った。
ごめんなさい、と。
もう一度、そう言ってみた。
謝ったって無駄だと、誰かが言った。
その通りだと思う。
謝ったくらいで許されないって、まさにその通り。
でも、他に出来ることも思いつかないから、ボクは壊れた機械のように、ごめんなさいを繰り返して――その度に、罵声を浴び続けていた。
「やめて!」
それをとめてくれたのは、意外なことに、紀伊子ちゃんだった。
「もういいの。私はもういいから、だから、芽衣子ちゃんを責めないで上げて」
一瞬、耳を疑った。
だって、そうだ、ボクは紀伊子ちゃんをこそこそ苛めていたんだ。それが切欠になって、紀伊子ちゃんはクラス中から苛めを受けるようになって……辛い日々を送っていたはずなんだ。だっていうのに、どうして、その紀伊子ちゃんが……ボクを助けようとするんだろうか。
「私は、もういいの。謝ってくれれば、それでいいから……」
紀伊子ちゃんはそう言ったけれど、由香ちゃんはボクの胸倉を掴んだままだった。
「紀伊子、こいつのせいでお前が苛められることになったんだぞ? それを……」
「お願い、由香ちゃん」
「………わかったよ」
すっと、由香ちゃんがボクの体を降ろしてくれた。
「おいおい、そんなに簡単に許してんじゃねーよ」
「悪いのは全部この女、竹田芽衣子なんだぜ?」
「どんな理由があったってな、悪が肯定されることはないんだ。こいつのやったことは悪だ」
「そうだそうだ、許すな!」
周りにいた男子達が、口々にまくしたててくる。
ボクは、今更ながらに恐怖を思い出しように、びくびくと体を震わせていた。
「うるせえ! 紀伊子が許すって言ってんのに、ぶり返してんじゃねえよ! 紀伊子を苛めてたお前らに、芽衣子を責める資格なんざねえんだよ!」
――俺にだってねえよ、と付け加えて、由香ちゃんはうなだれて……紀伊子ちゃんを見た。
「悪かったよ、紀伊子。つい、かっとなっちまって」
「いいの、ありがとう、由香ちゃん」
由香ちゃんは照れくさそうに顔を逸らしていた。
「……俺たちも、悪かったよ」
手のひらを返したように、男子達も謝り始めた。由香ちゃんの言葉に感銘でもしたのだろうか……男子達は、紀伊子ちゃんと、由香ちゃんにも謝っている。いいの、とか、気にしないで、とか、許していく紀伊子ちゃん。由香ちゃんも、さきほど殴り合いをしていた男子達と、なんとか仲直りしているようだった。
それは、不思議な光景だった。
どうして、今まで苛められていたっていうのに、ついさっきまで対立していたっていうのに、あんなにもあっさりと許すことが出来るんだろう。
特に、紀伊子ちゃん。
ボクは、紀伊子ちゃんは気弱で、いっつもおどおどしていて、脆弱だと思っていた。
確かにそれは、そうなのかもしれない。
でも、それでも……たとえ気が弱くっても、紀伊子ちゃんは誰よりも強い。
それはきっと、優しさという強さを持っているから。
謝ってくれればいい、なんて……それで許せるなんて……ボクにはとても出来ない。
紀伊子ちゃんにに比べて、ボクは。
由香ちゃんと友達になりたいばっかりに、紀伊子ちゃんを苛めて……最低のくずだ。
本当に弱いのは、ボクだ。
朝の会が始まる、五分前のチャイムが鳴った。
みんな何事もなかったかのように、席についていく。
ボクは、廊下に立ちすくんでいた。
だって、少し考えてみればわかる。
さっきはキーコちゃんがああ言ってくれたから、僕は許してもらえたけれど。
でもきっとこれから、ボクはますます孤立していく。
元々友達なんていなかったけど、もしかしたら出来るかもしれないっていう望みはあった。
でも、それももうおしまいだ。
僕は自分自身の愚考でその可能性の目をつんでしまった。
何より、ボクの大好きなユカちゃんを、裏切ってしまった。
ボクのことを友達だと言ってくれたのに、友達だと思ってくれていたのに、僕は……。
朝の会が始まるチャイムが鳴って、教室へ入ってきた先生に怒鳴られて、ボクはようやく自分の席に着いた。
誰かが笑った。
「きりーつ」
――これからきっと、地獄のような日々が始まるんだ。
「れーい」
日直の号令を聞きながら、そんなことを思っていた。
4
昼休みの屋上。
ボクは一人で、そこに佇んでいた。
紀伊子ちゃんへの苛めも終わって、今度はボクが苛められるんじゃないかと怯えていたけど、そんなことはなかった。
ただ、前と同じに、独りぼっちでいるだけ。
屋上のフェンス越しに、グラウンドではしゃぐ生徒達を眺めていたら、なぜだか涙が流れてしまった。
「芽衣子ちゃん?」
ふいに声をかけられて、僕は涙を拭って振り返った。
そこにいたのは、紀伊子ちゃんだった。
「……紀伊子ちゃん」
なんと言っていいのかわからなくて、僕はただ、紀伊子ちゃんの名前を呼んでいた。
紀伊子ちゃんは軽く微笑んで、ボクの隣まで歩いて来た。
「二人っきりで話がしたくて……いいかな」
「……いいよ」
ボクと紀伊子ちゃんは、屋上のベンチに座って、話をすることにした。といっても、ボクの方は何を言ったらいいのかなんてわからなかったけど。
「ユカちゃんのこと、好きなんだよね」
突然、そんなことを言われた。
「……知ってたんだ」
「なんとなく、ね」
「でも、もうおしまいだ」
「おしまいって?」
「ボクには、もう由香ちゃんと仲良くなる資格がない。君にひどいことをした罰さ」
それに、由香ちゃんはまだボクのことを怒っているだろうし……そう付け加えると、紀伊子ちゃんはぶんぶん頭を振って否定した。
「そんなことない。由香ちゃんだって、芽衣子ちゃんと仲直りしたいと思ってるよ」
「それは……由香ちゃんがそう言ったの?」
「そうじゃないけど……でもきっと、そう思ってるよ」
「そうかな……」
「そうだよ!」
紀伊子ちゃんは、真剣な目でそう断言した。
本気で、ボクと由香ちゃんに仲直りしてほしいと思っているようだった。
「……どうして、」
その真剣さが、ボクには不思議でしょうがなかった。
「どうして君は、ボクなんかのために、そこまで真剣になってくれるの?」
ボクは君を、苛めていたのに。
「君にとって、ボクは憎むべき対象のはずなんだ。そんなボクに対してまで、どうして君は、そこまで優しく出来るのさ……」
ボクが問いかけると、紀伊子ちゃんは、顔をうつむかせて話し出した。
「……苛められている間、ずっと一人で、辛かったから……」
「……ごめん」
そんなことを言われてしまったら、ボクには謝ることしか出来ない。
「ううん、それはもう、いいの」
もう、いいから、そう言って、紀伊子ちゃんは、自分のことのように続きを話し出した。
「独りぼっちは、さびしいよ……」
まるで、泣いているかのような顔で。
ボクの本音を言われてしまった。
そう、本音を言えば。
「ボクだって……寂しいさ。独りぼっちは……嫌に決まってる。でも、もう、どうにも出来ないんだよ……」
そんなことないよ、と。
紀伊子ちゃんは優しく言ってくれた。
「私と友達になろうよ」
そう言うって、紀伊子ちゃんは、ボクに手を差し出してきた。
――本当に、なんで。
なんでこんなボクに、優しくしてくれるのか。
「ボクが独りぼっちで……同情したから?」
「それもあるけど、でも、やっぱり……」
友達が泣いてるのに、ほっとけないよ――そう言ってくれた。
それは、ボクが由香ちゃんに言われた言葉と、似ているような気がした。
苛められている紀伊子ちゃんを助けようとした由香ちゃんは、理屈でそれを止めようとするボクに、こう言ったんだ。
――友達が泣いてるんだ、苦しんでるんだぞ。それを見殺しにしていい理由なんざ、オレは知らねえ――。
ああ、ようやくわかった。
どうしてこの二人が、友達なのか。
脆弱な紀伊子ちゃんを由香ちゃんが守ってあげてるなんて、そんな関係じゃなかった。
性格は全然違うけど、この二人は――ある一点においてのみ、ものすごく共通してるんだ。
そう、ものすごく、友達思いなんだ。
そして、そんな紀伊子ちゃんが、ボクに友達になろうって言ってくれている。
手を、差し伸べてくれている。
友達が泣いてるのをほっとけないからって……あれ?
友達が泣いてるのをほっとけないから、友達になろうって……それって、矛盾してるじゃないか。
「……ボク、まだ、友達になるって言ってないよ……」
そう言うと、紀伊子ちゃんも発言の矛盾に気づいたのか、
「あはは、そうだね」と照れくさそうに笑った。
そう言いながらも、差し伸べられたままの手。
こんなボクに……こんな卑怯でひどいヤツのボクに、紀伊子ちゃんは手を差し伸べてくれているんだ。それを、それを断るなんて…………出来るわけないじゃないか。
「しょうがないなあ……。ここで手を跳ね除けたら、ボクはとんでもなく嫌なやつになっちゃうじゃないか」
そう言って、ボクはようやく、紀伊子ちゃんの手を握り返すことが出来た。
「えへへ、よろしくね、芽衣子ちゃん」
余った方の手を重ねて来る紀伊子ちゃん。
「……うん。こちらこそ、紀伊子ちゃん」
ボクも、余った方の手を重ねた。
――暖かい。
紀伊子ちゃんの手から、温もりが伝わってくる。
なんだ、こんなに簡単なことだったんだ。
友達を作るって、こんなにも、簡単で……幸せなことだったんだ。
「えへへ、行こっ、芽衣子ちゃん」
ボクの手を引いて、走り出す紀伊子ちゃん。
「ど、どこへ行くの?」
慌てて問いかけると、紀伊子ちゃんは振り返って、笑顔で答えた。
「由香ちゃんのところ。仲直りしに行くの」
「…………それは…………」
はっきり言って、怖かった。
紀伊子ちゃんには、由香ちゃんと仲良くなる資格がないって言ったけど、そんなのは嘘だ……。本当は、ただ、怖いだけなんだ。
あの時、紀伊子ちゃんへの苛めを始めたのは僕だと告白した時、由香ちゃんは本気で怒っていた。紀伊子ちゃんが止めてくれたから、それで終わりにしてくれたけれど……あれ以来、ボクは由香ちゃんと話すらしていないんだ。もし話をしたら、また怒られるんじゃないかって、ますます嫌われちゃうんじゃないかって……だから……。
「……怖いんだよ……」
「大丈夫」
また、断言されてしまった。
「友達の友達は、友達だもん。だから、大丈夫」
それは、何の根拠もないはずなのに――なぜだか、信じてみようっていう気になれてしまった。そう思ったら、そう思えたら、なぜだかひどく、ほっとした気持ちになった。
「……わかった」
ボクがそう言うと、紀伊子ちゃんは満足そうに微笑んで、ボクの手を引いて再び走り出した。
ボクはそんな紀伊子ちゃんの背中に、一言。
ありがとうとささやいた。
<<了>>
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