フレデリカの詩

 

 

 

      私は詩を綴る。

   自らの死と引き換えに。

 

    私の詩は彼女の玩具。

 振り回されれば壊れる宿命。

 

     私の詩は残らない。

  ゴミ捨て場で詩集を拾う。

 

    最後の詩は私の死。

  壊れた玩具に用はなし。

   始まりの詩も私の死。

 宿命にしたのは自らの意志。

 

   Frederica Bernkastel

 

 

 

 

 

プロローグ

 

 

 暗幕が下りる。

 雛見沢という舞台に、闇という名の暗幕が下りる。

「はっ――、はっ――」

 静寂を切り裂くは、幼い少女の荒く激しい息遣い。

「はっ――、はぁ――!」

 街頭すらない夜道。月明かりだけを頼りに少女は走る。

 少女の長い黒髪がなびき、夜の闇に吸い込まれていく。その様はまるで、闇が少女を飲み込まんとして迫っているかのようだ。

 それはまさに、少女と闇の鬼ごっこ。

「はあ……! はあ……!」

 少女の小さな胸が上下する。どれくらいの距離を走ったのだろうか。少女の全身は汗にまみれていた。

 大きく息を切らしながら、それでも少女は走るのをやめない。

「梨花……少し休んだほうがいいのです」

 走る少女の横――深い闇色の中から、ぼうっと人影が浮かび上がった。

「うるさいわね、羽入……休んでる暇なんか……ないわよ……。あいつに、追いつかれちゃうでしょ……」

 浮かび上がった影――羽入には目もくれず、梨花と呼ばれた少女が苦しげに言った。

「で、でも梨花……」

「でもとだっては……なしって、いったで、しょ……」

 口元だけで笑みを作る梨花。

 しかしそこには余裕など微塵も感じられない。

 梨花を支配しているものは、焦りと恐怖と……驚愕。

 「しかし……あいつは、何者なの?」

 前を向いて言う梨花。

 そのあいつとは、鬼ごっこの鬼に違いなかった。

 梨花の後方、常に一定の距離を保って追いかけてくるあいつ。

 その正体は――。

「多分、リカなのです」

 申し訳なさそうに言う羽入。

「……そうね」

 それだけ言って、梨花は会話を中断した。

 いや、中断せざるをえなかった。

「……痛っ」

 地面に前のめりに倒れた梨花は、数秒遅れで事態を把握した。

 羽入との会話に気を取られていて、石ころにつまづいて転んでしまったのだ。

「う……」

 起き上がろうにも、全く力が入らない。

 全身を覆う疲労と倦怠感に、梨花の体は動かない。

「梨花!」

 羽入の悲痛な声。

 梨花にはそれが、何を意味しているかはわかっていた。

 それは――

 

「あら。もうお終いなの、梨花?」

 

 ――鬼ごっこの終わりを意味していた。 

 倒れ伏す梨花は、体を横転させて仰向けの体制をとる。

 自らを追いかけていた鬼と向き合うために。

 そして見た。

 その鬼の正体を。

 梨花の視界に移ったのは、紛れもなく。

 古手梨花だった。

「――――――は」

 ははははは、と。

 呼吸も忘れて、梨花はそこにいたリカを見て笑った。

 体の疲れなど吹っ飛んでしまった。

 当然だろう。なにしろ自分を追いかけていたのは、他でもない自分自身だったのだから。

 狂っていると、梨花は思った。

 これが夢でなければなんだという。これが嘘でなければなんだという。

「あなたは……何者なの?」

 笑みを浮かべたまま問う梨花。

 対するリカもまた、笑みをもって答えた。

「あら、私はリカよ。古手梨花」

 そんなことは、問うた梨花自身が知っている。

 見ればわかる。本物だと。

 だが、自分が二人いるという現状を、そう簡単に受け入れれるはずがない。

 しかし、そんな梨花の疑念を嘲笑うかのように。

「さようなら、梨花」

 もう一人のリカは、その手に持っていた包丁で。

 何の躊躇もためらいもなく。

 

 梨花の喉笛を切り裂いた。

 

 致命傷だった。

 開かれた傷口から血が溢れる。

 梨花は急速に薄れていく意識の中で、自分を殺したリカを見つめていた。

 月を背負い立つその少女は、やはり紛れもなく……自分と同じ古手梨花。

 ……死ぬのは初めてじゃあない。

 死の痛みも、熱も、冷たさも、慣れている。

 だが……自分に殺されるのは、初めてだ。

 羽入が何かを言っている。しかし、すでに梨花には聞こえていない。

 梨花は最後の力で、自分を殺したリカに語りかける。

 ……私の命、くれてやるわ。

 今回こそは惨劇に打ち勝つつもりだったけど……いいわ。

 私の分まで……せいぜいあがいてみせなさい……。

 もう一人の……古手梨花……。

 それは声にすらならない声だった。

 しかしリカには、梨花の声が届いていたのか、愉快そうに答えた。

「生憎ね。私は惨劇に挑むつもりなんてないわ」

 どこか皮肉めいたその声は、すでに梨花には届いていなかった……。

 

 それは、綿流しの一週間前の出来事――。

 百年を生きた少女が迎えた、あっけなさ過ぎる最後の死。

 そして、百年を生きた魔女が迎えた、復讐の始まり。

 

「ああ――今夜はいい月ね」

 

 月を仰ぎ見るリカ。

 その手に握られた包丁が、音もなく霧散し、闇に消える。

 その傍らで、梨花の死体もまた――闇に解けるように消えていった。

 

 閉ざされた舞台裏。

 誰にも気付かれず、惨劇の幕が厳かにあがる。 

 

 

 

 

 誰も気付かない。

 少女の入れ替わりを。

 誰も気付けない。

 少女の死を。

 なぜなら少女は、正真正銘の古手梨花だから。

(まるで魅音と詩音ね)

 恒例の部活動の最中、リカはそんなことを思っていた。

「梨花、どうしたんですの? さっきからぼーっとして」

 梨花の親友である沙都子が心配そうに言った。

「ボクの心配より沙都子は自分の心配をした方がいいのです。罰ゲームはアレを着て帰るのですよ?」

「わ、わかってますわ! 言われなくてもすぐに逆転してみせますわ!」

 ふんっと気合を入れなおす沙都子。

 今回の部活は神経衰弱だった。記憶力が勝負のシンプルなゲーム。しかし勝つためには如何なる手段を用いてもよい部活では、たかが神経衰弱とてあらゆる策を張り巡らさなければ勝つことはできない。

 ――そして。

「すげえな梨花ちゃん……これで四連勝だぜ」

「う、うん。今日の梨花ちゃんは一味違うね」

 圭一とレナが感嘆の句をもらす。

 リカは今回の部活において負けなしで一位を独占していた。その活躍たるや一気呵成、縦横無尽、変幻自在。見る者全てが舌を巻く超絶テクニックで並み居る強敵・部活メンバーをことごとく退けていたのだ。

「まぐれなのですよ。にぱー」

 お決まりの梨花語で答えるリカ。

 しかしもちろん、この結果はまぐれなどではない。神経衰弱において重要なのは記憶力だと思われがちだが、本当に重要なのは揺ぎ無い精神力だ。いかな記憶力を持とうとも、あせりや動揺がミスを誘い、疲れと怠慢が気力を奪う。全てのゲームに言えることだが、最終的に必要なのは頭のよさでも技術でもなく、精神力なのだ。そして、リカの精神力は明らかにずば抜けていた。

 長く苦しい戦いだった。あらゆる意味で、リカは戦い続けてきたのだ。だがそれももうすぐ終わる。

(そう、私が――終わらせてみせる)

 そして、とうとう決着の時が訪れた。 

「よし、これで終了だね。一位は梨花ちゃん! 最下位は沙都子! さーて、じゃあ沙都子には、さっそく罰ゲームをしてもらうことにしようかねえ。くっくっく!」

 魅音がいやらしく笑い、屈辱的な衣装を手に沙都子に迫る。

「くっ……どうしてもこの運命からは逃れることはできないんですのね……。仕方ありませんわ、これも敗者の定め。潔くその衣装を着させていただきますわ」

 別室でしぶりながらも着替えてきた沙都子を、部活メンバーが迎える。

 圭一がつっかかり、沙都子が泣き出し、レナがかあいいモードを発動させ、ノックアウトされた圭一をリカがなぐさめ、魅音が締める。

 それは繰り返されてきた日常となんら変わりない、彼らにとって間違いなく幸福と呼べる時間。

 しかしリカだけは、笑みを浮かべながらも内心ではこんなことを考えていた。

(梨花はこの時間を何より大切に思っていたようだけど……私は違うわ)

 誰にも見えぬよう、その瞳をぎらつかせる。

(こんな時間を続けるために、惨劇を繰り返すなんて、私は望まない)

 教室の喧騒からゆらりと離れ、自然と廊下に出る。

(そう、私が梨花に成り代わった理由は一つ。それは……)

 リカは決意に満ちた表情で、己が目的を口にした。

「――アイツを殺すためよ」

 誰にともなく言った言葉。

 無論、返事はなかった。

 遠い喧騒とひぐらしの合唱を聞きながら、リカは拳を強く握り締めていた。

 

 

 

 

 レナが訪ねて来たのは、丁度夕食が終わった頃だった。

「梨花ちゃん今日、部活で大活躍してたでしょ? どんなやり方をしたのか教えて欲しいと思って。だめかな? かな?」

 というのが、表向きの訪問理由だ。

(勘のいいヤツね。あるいは……あいつの差し金かもね)

 リカと沙都子が暮らしている家の玄関で、リカとレナは対峙している。

 リカは逡巡してから、困ったような顔を作って答えた。

「みぃ? レナはボクがずるをしたというのですか?」

「そ、そんなんじゃないんだよ。ただ、梨花ちゃんがあんまり強かったから、何か秘密があるんじゃないかと思って」

「レナは面白いことを言うのです。一体ボクにどんな秘密があるというのです?」

「あ、うん。あのね、なんていうか……まるで別人みたいだなあって」

 リカの表情が曇る。

 対するレナは笑顔だが、その心中はリカには計り知れない。

(この女……やはり)

 リカは動揺を悟られぬよう、笑顔を作ってみせる。

 しかしレナは、

「梨花ちゃん。何か隠し事してるよね」

 鷹のような目で、リカを見据えてきた。

「ボクは何も隠してなんかいないのですよ?」

 ひょうひょうと答えるリカ。しかし、

「嘘でしょ、リカちゃん。レナにはわかるよ」

 レナの声に刃物のような鋭さが増していく。

「あなたは、誰なのかな? かな?」

「ボクは梨花なのです」

「嘘だ!」

 凄まじい形相で怒鳴るレナ。

「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」

 矢継ぎ早に嘘だ、を連呼し続けている。

 しかしリカはたじろぐことはせず、冷静に分析する。

(バカなことを……疑心暗鬼にかられているのか……雛見沢症候群……私の片割れが死んだことで発病が促進されたか……あるいは……アイツが意図的に……?)

「どうして黙っているのかな? かな?」

 問い詰めてくるレナに、リカは憮然として答えた。

「カナカナうるわいわよ、蝉女」

「なッ……」

 レナの表情が一瞬凍る。

 その時、

「リ、梨花。レナさんどうしたんですの?」

 騒ぎを聞きつけて、奥から沙都子が姿を現した。

(……不味いわね。他のヤツならともかく、沙都子を巻き込むのは気が引ける)

「みぃ、なんでもないのですよ、沙都子。ボクとレナはちょっとお散歩してくるのです」

 リカの発言に、沙都子は怪訝な顔を浮かべる。

「お散歩ですの? もう八時ですわよ?」

「大丈夫なのです。すぐに帰ってくるのですよ」

「……そうだよ、沙都子ちゃん。レナがついてるんだから、問題なんておきやしないよ」

 不安げな沙都子を残し、リカはレナを先導して境内の裏手に向かった。

 

 境内の裏手につき、リカは背を向けたままレナに言った。

「さて、私の秘密が聞きたいと言っていたわね」

 幼い顔には似合わない、妖艶な笑みを浮かべて振り向くリカ。

 そこには。

 巨大な鉈を振りかぶり、今まさにリカに襲い掛からんとして迫り来るレナの姿があった。

(な――――――っ)

 リカの思考がフリーズする。

 状況が理解できない。わかることはただ、このままではレナの鉈に頭を砕かれるという事実だけ。

 レナが迫る。

 何の躊躇も、ためらいもなく。

 無言で鉈を振り下ろしてくる。

 一直線に降下するそれは、間違いなくリカの頭部を両断する――。

「―――くっ!」

 間一髪、リカは体を逸らして鉈を回避した。

「……ちっ」

 憎しげな舌打ち。それがレナのものであることは疑いようもない。

「レナ、まさか」

 リカの言葉など聴く耳もたず、レナは振り下ろした鉈を反転させ、下方から切り上げてくる。

 三日月を描くような軌跡で、鋭利な刃がリカの体を切り裂きに掛かる――!

 またも脳裏をよぎる死の予感。

 不安定な体制から、リカは人間離れした動きでレナの斬撃を回避した。 

 しかし――。

「ぐっ!」

 鉈に気を取られていたリカは、死角から放たれたレナの蹴りをモロに食らってしまった。

 吹っ飛ばされるリカ。しかし空中で体制を立て直し、なんとか着地した。

 レナを見据えるリカの目には、驚愕の色が浮かんでいる。

(バカな……どうしてレナがこんな戦闘技術を持っている……?)

「おおおおおあああ!!」

 レナは止まらない。

 雄たけびを上げてリカに追撃をかけてくる。

 右手に持った鉈を袈裟切りに切りつけてきたかと思えば、すぐさま踏み込みを加えた瞬速の突きに転じてくる

 紙一重で回避するリカ。リーチで劣るリカは、反撃もままならず逃げ回るだけだ。

(レナには……人を殴ることを躊躇しない精神の強さとか、目にも留まらぬ高速のパンチを放つ技術もあった。それはある意味……そういった戦う素質があったのかもしれない。だが!)

 ぐんと大地を踏みしめ、大きく跳躍したレナは、リカの頭上から渾身の一撃を叩き込んでくる――。

「うっ!」

 身をひねり、体を転がして難を逃れるリカ。

 その刹那、轟音が轟く。

 レナの攻撃により、大地が大きく抉れていたのだ。

 そこだけ地割れが起きたかのように、一直線に亀裂が走っている。

(これは……異常だ)

 レナの猛攻は続く。

 くるくると鉈を回転させての、予測不可能な多角的攻撃でリカを翻弄する。

 連撃に次ぐ連撃。空を切る攻撃さえ蒔き餌。空中で軌道を変化させ追撃をかける。目にも留まらぬ速攻の斬撃はまさに閃光――。

 その全てが必殺の一撃。リカの命を断頭する、絶えることなき死の凶刃。

 しかし――。

 そのことごとく。リカは全て回避した。

「この――――!」

 レナの大振りな斬撃を後ろに跳躍してかわすリカ。

 ざっと間合いを取ってにらみ合う両者。

 レナの顔には明らかな狼狽が浮かんでいた。なぜ倒せない――口に出さずとも、レナの顔がその心中を物語っていた。

 ふっと余裕の笑みを浮かべるリカ。

 そう――レナの攻撃が常人離れしたものならば、それを回避したリカの動きは常識そのものを逸脱していた。

 狼狽を深めるレナに、リカは余裕を持って言い放つ。

「あぁ――いい運動になったわ」

 ぎりっという音が響く。レナが奥歯をかみ締める音だった。

 わなわなと両腕を震わせたかと思うと、大きくしゃがみこんで構えを取るレナ。

「う、うおあああああああああ!」

 咆哮と共に疾駆するレナ。

 上段に構えた鉈で、今度こそリカの命を両断にかかる――しかし。

「だいたいわかったわ。どうやらあなたは、アイツに操られているようね」

 リカは冷笑を浮かべ、すっと右手を前に突き出した。

 その瞳は迫るレナを捉え、開かれた右手で迎え撃つ――。

「静まれ――――“縛”!」

 その言葉と共に、ぐっと右手を握り締めるリカ。

 その刹那、レナの体ががくん、と揺れ、その場に静止した。

「な――あ――」

 口をパクパクさせ、言葉を漏らすレナ。

 必死に体を動かそうと試みているようだが、僅かにぷるぷると震えるだけだ。

 そう――レナはすでに体の自由を奪われているのだ。

 それは紛れもなく、リカの力によるものだった。

 リカはレナに歩み寄り、その手から鉈を奪い取った。

 すかさず鉈をレナの心臓につきつけ、冷徹に言い放つ。

「どうする? このままこの女と一緒に死ぬ? 私はそれでもいいけどね」

 ぐっと鉈の先を押し付け、レナの服に小さな穴を開ける。

(………………ぁぅあぅあぅ)

 消え入りそうな声が響き、レナの体から気体のような人影が抜け出していく。

「逃がすか!」

 空飛ぶ人影めがけて鉈を投げつけるリカ。しかしその鉈は霧散するようにして消えてしまった。

(もともとアイツが創ったものだったか……詰めが甘かったわね)

 虚空を見つめるリカは、やがて立ちすくんでいるレナに向き直り、

「――“解”」

 レナに与えていた戒めを開放した。

 どっと倒れこむレナの体を支え、リカはこれからのことを考えていた。

(アイツ……やはりまだ力を隠していたようね。レナの体をのっとるなんて……なりふり構ってはいられないってことね)

 とにかく今は、レナを何とかしなければならない。入江に見せるのが一番いいだろう。

(……時を戻すほどの力はなくとも、人間を操るくらいはできる、か。でも……今のがアイツの精一杯なら、機を窺わなくても勝てるかもしれないわね)

 レナをその場に残し、診療所へ電話をかけるべく、リカは家へ向かった。

(……アイツとの決着の日も近いかもね……)

 

 

 

 

 窓から差し込む光で目を覚ました。

 寝起きの倦怠感が体を支配していた。

(だるいわね……生の体っていうのは……)

 リカは眠たげに瞼をこすって、部屋を見渡した。

 沙都子の姿はなかった。すでに起きて朝食と弁当を作っているのだろう。

「あ、梨花。おはようございますですわ」

 階下に行くと、案の定朝食を作っている沙都子がいた。

 エプロン姿の沙都子を見て、リカはやんわりとした微笑を浮かべる。

「おはようなのです。沙都子」

 すでに弁当は出来上がっているらしく、後は朝食を作るだけのようだ

「沙都子は早起きなのですね。将来はよいお嫁さんになるのです」

「な、何を言ってますの。梨花こそ、そんなお寝坊さんでは先が思いやられますわ」

 などと談笑しながら、梨花も沙都子と一緒に食事の支度に取り掛かった。

(なんだかんだ言っても……私はこの子だけは見捨てられないのよね……)

「梨花? なんだか元気がありませんわね」

 フライパンで目玉焼きを作りながら、沙都子がぽつりと言った。

「そんなことないのですよ。起きたばかりだから、まだちょっと眠いだけなのです」

 キャベツをとんとん切りながら答えるリカ。

 にぱー☆と笑顔を見せるリカに、沙都子は苦笑しつつも答える。

「そうでございますの? なら早く朝食を済ませて元気になってくださいましですわ」

 よっと目玉焼きを皿に移す沙都子。

 それを見るリカの表情は一転してうつろだ。

(私は……この日常を古手梨花から奪ってしまったのね……)

「梨花、何かおっしゃいました?」

 テーブルに料理の載った皿を並べつつ聞いてくる沙都子に、

「なんでもないのですよ。にぱー☆」

 リカは笑顔で答えた。

 

 

「うわ……はっ、はっ、うわああああ!」

 鷹野三四はあせっていた。

 がむしゃらに両手両足を振りまくり、無我夢中で走っていた。

 彼女を知るものが見れば、その尋常ならざる様子に目を疑っただろう。

 常に落ち着き払い、怪しげな微笑を湛えていた鷹野。

 しかし今の彼女には、以前の理知的な雰囲気など微塵もない。

 ただ目前に迫る危機を前に、我を忘れて逃げるだけだ。

「三佐……? 一体何が?」

 鷹野が駆け込んだのは小批木造園だった。

「バカ! その名で呼ぶんじゃない!」

 早朝から血相を変えて飛び込んできた上司に、店の開店準備をしていた小批木は思わずとんだ失態を犯してしまった。しかしそれも無理からぬこと。常に冷静沈着な鷹野の取り乱しようは、まるで世界の終わりを直面したかのようなものだった。

「ど、どうしたんですか、一体?」

「来るわ……神が」

「え?」

「いたのよオヤシロ様が! ああ……!」

 頭を抱えてうずくまる鷹野。小批木は状況がイマイチ飲み込めない。

 雛見沢症候群が発病したのかとも考えたが、鷹野は抗体を打っている。それは有り得ない。ならば一体……?

 騒ぎを聞きつけ、中からも外からも人が集まってくる。

 騒ぎが大きくなるのは不味い。小批木は鷹野を無理やり引っ張って屋内に連れ込むと、シャッターを閉めて外界から隔離した。

 ――この上司はもうダメかもしれない。

 小批木はそう思った。理由はわからないが、鷹野が雛見沢症候群に感染したのは間違いない。ならば早いところ入江に連絡し、検査の後にしかるべき処置をとらねばならない。

 小批木が目で合図をすると、様子を見ていた仲間の男が電話の元へ駆ける。

 その男が突然倒れた理由が、小批木には理解できなかった。

 なぜならその時、すでに小批木はまともな思考を喪失していたからだ。

「あ……あ……?」

 そして、小批木の体もまた崩れ落ちる。

 小批木だけではない。

 鷹野も、そしてそこにいた全ての人が、突然倒れてうわごとのように意味のない言葉を繰り返していた。

「あ……オヤ……しろ……様……」

 誰ともなく呟いた言葉に答えるように、何もない空間に、ぼうっと人影が浮かび上がった。

 その人影は少女のようだ。……しかしその頭には、鬼のような二本の角が生えていた。

 少女が右手の人差し指で小批木を指差した。 

 すると小批木の体から、もやもやした気体のようなものが湧き出てきた。その気体は球形の固まりになり、やがて少女の胸に吸い込まれるようにして消えた。

 少女が別の男に指を向けると、今度はその男からもやもやした気体が溢れ、やはり少女に吸い込まれていく。

 そうしてその少女はそこにいた全ての人からもやもやを吸収し、お腹一杯と言わんばかりに恍惚な表情を浮かべて言った。

「……どうせ終わる世界。お前たちはもう用済みなのです。ならばせめて――僕の糧となるがいいのです」

 あぅあぅあぅ、と。

 おろおろしているのか、嘲っているのか、判別しがたい表情で少女は続ける。

「後はリカに奪われた力を取り戻せば……また元通りなのです」

 その言葉を聞いている者はいなかった。

 なぜならすでに、この場には生きているものなど皆無だからだ。

「そう……全てが元通りになるのです。また、初めから……やり直しなのですよ」

 あぅあぅあぅ! と。

 その少女は喜びを隠しもせずに笑い続けた。

 そして、少女の姿がすうっと消えていく。

 次の瞬間、倒れていたある人物がむくりと起き上がった。

 虚ろな眼差しを携えて、鷹野三四はあうあうあう! と叫んでいた。

 

 

4 

 

 

 それはなんてことはない日常の風景だった。

 そのはず、だった。

「ほら、どうだ俺の弁当!」

 昼休み――圭一が自慢げに自分の弁当を皆に見せびらかしている。

「あー、いいな圭一君! 美味しそうなシュークリーム弁当だよ〜」

 頬を緩ませて圭一の弁当を覗き込むレナ。昨日リカと死闘を繰り広げたレナは、何事もなかったかのように学校へ来ていた。

「何言ってるんだよ。そういうレナだって、美味そうなシュークリーム弁当じゃねえか!」

 そこへやって来た魅音。

「あっハッは! 今日は天気も快晴! おじさんのシュークリーム弁当もお日様に負けず輝いているよ!」

「おお、魅音もシュークリーム弁当じゃねーか! そのふわふわ感、たまんねぇーぜっ!」

「ほ、ほんとだよぉ〜。はうー、美味しそう。お、お持ち帰り〜〜〜!」

「いやー、今日はシュークリーム祭りだねえ」

 そこへやって来た下級生コンビ。

「見てください前原さん!」

「僕たちのお弁当も負けてませんよ!」

「おお、富田君。岡村君。見事なシュークリーム弁当じゃないか!」

「あっはっは! じゃあ早速、シュークリームの食べ比べといこうじゃないか!」

「オーウ!」

 教室中の生徒が呼応する。

 皆が掲げる弁当箱には、これでもかというほどシュークリームだけが詰められていた。

 そして、宴が始まった。

 目の色を変えてシュークリームを貪り食らう人々。

 両手と口の周りをクリームでべとべとにしながら、それすらも舌でぺろぺろと嘗め回し、新たなシュークリームに手を伸ばしていく。

 どこか間の抜けた――それでいて異常極まる甘美な宴。

 そんな中――。

「あれ? 梨花ちゃんどこ行くのかな? かな?」

 その場を離れようとしていたリカに、レナが声をかけてきた。

「ちょっとお手洗いなのです。沙都子が一人じゃ怖くて行けないと言うから、一緒に行ってあげるのです。ね、沙都子?」

 リカがそう言うと、呆然としていた沙都子ははっとなり、

「な、何を言ってますの! 梨花がどうしてもと言うから、私も一緒に行くんですのよ!」

 リカに続き、慌てて教室を出た。

 

「な、なんなんですの!? どうしてみなさんシュークリーム弁当なんて持ってきてますの?」

 沙都子の当然の疑問に、リカが淡々と答える。

「おそらく、アイツの仕業に間違いないわね」

「あ、アイツ……心当たりがありますの?」

「ええ。私を挑発してるんでしょうね」

「挑発? どういうことですの……」

「それは――」

 リカが答えようとしたとき、

「どうしました? 古手さん、北条さん」

 後ろからかけられた声に、振り向いた。

 そこにいたのは教師、知恵だった。

「知恵先生! みなさんの様子がおかしいんですの!」

 即座に沙都子が教室の異常を訴えた。

「おかしい? どういうことですか」

 動転している沙都子をなだめ、リカが問うた。

「知恵……今日のお弁当は?」

 沙都子もその質問の意味を悟り、ごくりとつばを飲み込む。

 一瞬の間――知恵はにこりと微笑み、

「もちろんカレーですよ!」

 と、胸を張って答えた。

 知恵の答えに、リカと沙都子が安堵したのもつかの間。

「今日は、特製カレー入りシュークリームです!」

 最悪の答えが返ってきた。

 沙都子が不安げにリカの服の裾を掴む。

「リ、梨花……」

「――沙都子」

 リカはこの状況を甘く見てはいなかった。

(この状況――。昨日、レナがアイツの支配下にあったように……恐らく今、学校中の人間が、アイツに操られているのね)

 リカは間を繕うように、にぱー☆と笑みを作る。

(アイツの好物がそのまま操られている人の好物になっているというわけね)

 そしてリカは、右手をすっと知恵に向け、

「――――“縛”!」

 その動きを束縛した。

「行くわよ、沙都子!」

 呆気にとられている沙都子を連れて、走り出した。

 立ちすくむ知恵の横を走りぬけ、一気に階段を下りて校舎から抜け出した。

「リ、梨花? どういうことなんですの? それに知恵先生は……」

 当然の疑問を投げかけてくる沙都子。

 しかし今は悠長に答えている暇はない。

 沙都子の手を引いて走りながら、リカは簡潔に事実だけを告げる。

「簡潔に言うわ、沙都子。みんなは操られている。私はこれからみんなを操っているヤツを倒しに行く」

「な、なんですのそれは? 意味がわかりませんわ」

「わからなくてもいいわ。でも信じて。おそらく沙都子は……私と一緒にいたからアイツの影響を受けなかったのね」

 沙都子の手を離し、立ち止まるリカ。

 そこは丁度、道が二手に分かれているところだった。一方の道は、雛見沢の外へと通じる道……。

「沙都子は逃げて。雛見沢の外まで行けば、アイツの力も及ばないはず」

「で、でも。梨花はどうするんですの? どういうことなのかさっぱりわかりませんが……私は梨花と一緒でなければ逃げませんわ! いいえ、圭一さんたちが操られているというのなら、私も一緒に戦いますわ!」

「――沙都子」

 沙都子の言葉が、リカの心を揺り動かした。

 梨花と一緒に戦うと言う沙都子。

(沙都子……あなたは勇敢だわ。そんなあなただから、全てに絶望した私でも、あなたにだけは甘いのかもね)

 いや――と、リカは思い直る。

(そんな……深い意味なんてないわね。私はただ、単純に――この子が好きなだけなんだから)

 内心ではフッと笑みを浮かべながら、しかしどこか冷めたような表情で沙都子を見据えるリカ。

「――でもね、沙都子。私はリカなのよ」

「梨花? 何を言ってますの??」

「古手梨花はもういない。私が、殺したから」

 あまりにも真っ直ぐな、リカの告白。

 しかし沙都子には、到底理解が及ぶ話ではない。

 それでも構わず、リカは続ける。

「私は梨花の深層心理にすぎない。くりかえされる惨劇に絶望し、閉じ込められた世界で退屈を詠うだけの詩人

 沙都子の瞳に戸惑いの色が強くなる。

 リカはあくまで冷静に、淡々と己のことを語る。

「私は許せないのよ。古手梨花を閉ざされた輪廻の世界に連れ込んだアイツを……。そして、私を生み出した元凶でもあるアイツを殺すために―――私はアイツの力の残滓を使って、肉を纏い、一夏の命を得た」

 リカは沙都子に背を向ける。

「これは私の復讐。そんなものに、沙都子を巻き込むわけにはいかない」

 リカは視線を逸らし、申し訳なさそうに言う。

「ごめんね、沙都子。梨花を殺してしまって……許してくれとは言わないけど、どうか、私のことは忘れて欲しい。私は――古手梨花じないのよ」

「そ、そんなのわかりませんわ! 梨花が、梨花じゃないなんて、信じられませんわ!! ここにいるあなたは、間違いなく古手梨花ですわ!」

 涙声の沙都子に振り向かず、梨花は冷たく言い捨てる。

「違うわ。私は――フレデリカ。フレデリカ・ベルンカステルよ」

 そしてリカは、沙都子を残して走り去った。

 後悔はない。

 もとより、たった一つの目的のためにここへ来た。

 自らを殺し、そしてアイツを殺すために。

 道は今、分かたれた。

 リカは古手家が守る祭具殿へ向かった。

 

 

 祭具殿は、その様相を異界の如く変貌させていた。

 どろどろした空気があたりを満たし、シンと静まり返ったそこには生命の息吹が全く感じられない。

 その祭具殿の深奥――御神体を前に、鷹野三四はいた。

 鷹野の前には彼女の部下――小批木造園で働いていたプロの兵隊、山狗と呼ばれる男たちが跪いていた。

「あぅあぅあぅ……来たようなのです」

 鷹野が声を漏らす。その口調はどこか幼く、大人びた鷹野には不釣合いな喋り方だった。

 しかし、それに疑問を持つ者はここにはいない。

 ここにいるのは――すでに魂を失った操り人形だけなのだから。

「さあ、行くのです。愚かなリカを壊して来いなのです!」

 鷹野の檄が飛ぶやいなや、山狗たちは無言のままその姿を闇に消した。

 いや、一人だけ。

 小批木だけがその場に残っていた。

 無論、それは小批木自身の意志ではない。鷹野の――いや、鷹野の体を借りて喋っている者の意志により、小批木だけは別の命令を与えられるため、そこに留まっているのだ。

「小批木――お前は沙都子を連れてくるのです。沙都子を人質にすれば、リカとて手は出せまいなのです」

 ばっとその場を去る小批木に。

 誰もいない闇に向かって鷹野の声が独白のように念を押す。

「決して傷つけてはいけませんですよ? 僕は沙都子が大好きですから……出来ることなら傷つけたくはないのです」

 あぅあぅあぅ、と。

 不気味な笑いが祭具殿の中に響いていた……。

 

 

 

 

 祭具殿の門前には、十を越す数の山狗が待ち構えていた。

 彼らの虚ろな瞳を見て、リカは彼らが操られていることを悟った。

 じりじりと、山狗はリカの周囲を取り囲みながら距離を詰めてくる。

 それは明確な敵意の表れだった。

 臆することなく、リカは鼻で笑う。

「――なめられたものね。この程度で私を止めようなんて」

 リカが言い終わるより速く、山狗の一人が飛びかかかってきた。

「遅い――“縛”!」

 相手の動きを束縛する力でもって、迎撃にかかるリカ。

 ぴたっと針で止めたように動きを止める山狗。しかし――。

「が、があああああああああ!」

 山狗はリカの束縛を打ち破り、再び襲い掛かってきた。

「そんな!?」

 空中から放たれる蹴撃。

 それをかわし、体制を立て直すリカの周りに次々と山狗が襲い掛かってくる。

 その手にはいつの間にか刀や槍といった武器が握られていた。

(なるほど……祭具殿はアイツにとっては家みたいなものだったわね。ホームデジョンとでもいうつもりかしら……明らかに力が上がっている!)

「げ、げげげげげげ!」

 理性を失い、凶戦士のように武器を振るってくる山狗たち。その様子に、リカも気がついていた。

 すでに彼らが死んでいることを。

 死してなお、その体を利用されていることを。

 その様はまるで――繰り糸に操られる人形の様だ。

(やってくれるわね。ま、開き直ってもらったほうが、私としてもやりやすいけどね)

 リカは山狗の攻撃をひょいひょいかわしていく。もしも彼ら山狗に生前の知識と技術、そして近代兵器があれば、今のリカでも手こずっただろうに――。

(つまりこいつらは、私の戦力を奪う捨て駒に過ぎない? あるいは他の目的があるのか……どちらにしても、時間をかけるのは得策じゃないわね)

 跳躍して攻撃を避けていたリカは、着地と同時に、両手を左右にピンと伸ばし――。

 迫り繰る山狗に向かって、その言葉を告げた。

「砕け散れ――“砕”!」

 瞬間、リカの周辺にいた山狗の体が一瞬で砕け散った。それはまさに――粉砕。

 断末魔もあげずに朽ちていく山狗の体――降り注ぐ冷たい血を浴びて、リカは言う。

「さあ、かかってらっしゃい。本当の死を与えてあげるわ」

「を……をおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 呼応するかのように咆哮する山狗たち。

 再び突撃してくる彼らを、リカは次々と粉砕していった。

 ――勝負はついた。

 肉片と死臭に満ちた空間で、リカは己の顔を拭いもせずに進んでいく。

 己が元凶と定めた者の元へ――死者の操り糸を辿って死地に赴こう。

 

 祭具殿の入り口には鍵がかかっていなかった。

 リカはためらいもせずに足を踏み入れる。

 まだ昼とはいえ、祭具殿の中は深い闇に閉ざされていた。小さな窓から僅かに刺しこむ光だけが室内をウスぼんやりと照らしている。

 リカは手馴れた様子で電灯のスイッチを入れた。しかし配線が切られているのか、あるいは他の理由か――それが付くことはなかった。

(構いやしない――祭具殿の構造なら熟知している)

 リカは闇の中に足を踏み入れる。

 ぎしぎしと軋む床。

 錆び付いた鉄と古い木の匂いが支配する闇の世界。

 その、終点には――。

 

「くすくす。来たわね、リカちゃん」

 

 祭具殿の最深部――御神体の前に、鷹野三四は立っていた。

 鷹野はくすくす、と彼女が好んでいた笑いを浮かべる。

 リカはそんな鷹野を哀れんで言う。

「鷹野――気に入らない女だったけど、死してなお酷使されている姿には同情するわ」

 鷹野はリカの言葉を受け、にたりと邪悪な笑みを浮かべる。

「何を言うの? 酷使されている? 私は正真正銘の鷹野三四よ?」

「フン。下らない芝居はもう終わりにしなさい。今のあなたからは甘ったるいシュークリームの匂いしかしないわ」

 リカの言葉に、――ぁぅあぅあう、と小馬鹿にしたような笑いを浮かべる鷹野。

「そのとぼけ笑い、私が見間違うとでも思ってるの? いい加減正体を現しなさい――羽入!」

 決意を込めてその名を告げるリカ。

 そう、まさにその名、その相手こそ――リカがこの世に生を受けた理由。輪廻を回す者にして魂の冒涜者。

 それこそが――。

「そう――僕こそが神。オヤシロ様として讃えられた神聖。その名を羽入、なのですよ」

 向かい合うリカと、鷹野の体を借りた羽入。

 二つの視線が激しくぶつかり、火花を散らす。

 光の届かぬ祭具殿――暗幕の裏側。

 そこで――最後の戦いの火蓋が切って落とされた。

 

 銃声が轟く。

 鷹野の所持していた拳銃から弾丸が放たれ、リカに迫る。

「――“壁”!」

 リカは己が力を持ってそれを防ぐ。

 差し出された右手を中心に、見えない壁が作り出され、弾丸を弾き返す。

「さすがはリカ。ずいぶん僕の力を使いこなしているようなのですね」

 そう言いながらも、休むことなく弾丸を撃ち込んでくる羽入。

 それを弾きながら答えるリカ。

「ふん、そういうあんたは全然力を使っていないようね。それとも使えないのかしら?」

 がぎん、と見えない壁に弾かれ銃弾が壁にめり込む。

 それが最後の弾だったのか、鷹野――羽入はぽいっと拳銃を捨てると、新たな銃を取り出して、再び銃撃を開始した。

防戦一方のリカに、羽入がおどけたように話し出した。

「そうなのですよ――僕は時を戻すたびに、知らず知らずの内にリカに力を取り込まれていたのです。だから、今の僕に残された力は少ない。人間の魂を集めてみても、再び時を戻すには全然足りないのですよ」

 対峙していたリカの顔が曇る。

「時を戻す? バカ言わないで。古手梨花の精神はもう限界なのよ。表面上はそれを望んでいても、深層心理ではそれを拒んでいた。だからこそ、私のような“終わり”を望むリカが出てきたのよ

 そんなこともわからないの、と嘲笑うリカに、

「あうあうあう!」

 羽入もまた嘲りを返す。

 絶え間ない銃声の中、リカの頭に直接響くように羽入の言葉がこだまする。

「僕の本当の望みは……惨劇を乗り越えることなんかじゃあなかったのです。ただ梨花と一緒にいられれば、それでよしなのです。梨花にとって満足のいかない理不尽な死――惨劇。それがなければ梨花は時を戻すことに同意してくれないのです。だから――この世界は非常に都合がいいと、そう思っていたのですよ」

 惜しげもなく本心を語る羽入。

 リカは初めて聞いた羽入の心情に驚いた。しかし、それはリカの決意に油を注ぐ形になった。

「フン、やっぱりね。そうじゃないかとは思っていたわ。あんたが本気になれば、リカを殺す運命なんて簡単に打ち破れたはずだもの。それをしなかったってことは、ようするにその運命というのは――羽入、あんただったってことよ」

 軽蔑しきった視線を向け、リカは言う。

「でも、それももう終わりだわ。くだらない運命の結果が私を生んだ。あなたの好きな古手梨花は、もう終わりなのよ」

 そう、すでに手遅れ。

 羽入には時を越える力が残っておらず、古手梨花には時を越える意志がない。

 だというのに。

「あぅあぅあぅ……なんて愚か」

 羽入の表情にはかげりがない。

 銃声に乗せ、唄うように語る羽入。

「確かに梨花はもう終わりなのです。でも……なら? だったら――また初めからやり直せばいいだけなのですよ」

 ただそれだけのことだと、当たり前のように羽入は言う。

「そう――この梨花はもう壊れてしまった! どうあがいても直すことが出来ない! なら――そんなリカは捨ててしまえばいい!」

「な、なにを言ってるの!?」

 リカの顔に戸惑いが浮かぶ。

「まだわからないのですか……壊れたおもちゃ」

 下らないものでも見るかのように、見下した視線をリカに向ける羽入。

「つまり――梨花の生まれる前まで時を戻せばいいのですよ。まだ何も知らない――惨劇に殺されることなど知る由もない無垢なる梨花と、再び終わらない輪廻の世界を繰り返せばいいのですよ!」

「――――っ!!」

 リカの脳髄に電撃が走る。それは羽入の真意を知った悟りと、怒りの雷だった。

 羽入は――精神を磨耗し尽くした古手梨花に見切りをつけ、まだ心に傷ひとつない――生まれたばかりの古手梨花の元へ行こうとしているのだ。

 そして、再び梨花が壊れるまで、世界を繰り返す――と。

(冗談じゃあないわ――そんなこと――)

 そんなことが出来るわけがない、と。声にならない声で言うリカ。それは悲壮を伴った声だった。出来るはずがない、というよりも。出来てたまるか、という願いを込めたリカの心の叫びだった。

 それを知ってか知らずか、羽入は余裕を持って答える。

「出来るのですよ。だって――もう何度もやってることなのですから」

(――――――――――っ!?)

 今度こそ、リカは絶句した。

(何度もやっていることって――それはつまり――つまり――)

「こうして梨花がダメになるたびに、また初めからやり直していたということですよ。そう、すでに! 何度も! 何度も! 僕はそうやって梨花と永遠を生きてきたのですよ! あぅあぅあぅあぅ!」

 ぎり、と奥歯をかみ締め、拳を握るリカ。

「おや、怒っているのですか? 今更この運命から逃れることなど出来ないのに? あぅあぅあぅ。それに力の問題なら、今僕の目の前にいるリカから返してもらえばいいだけのことなのです。それで全てがこと足りるのです! 再び時は戻るのです! 全てが始まる前まで!あーぅあぅあぅあぅ!

 心底愉快、羽入は狂ったように笑い出す。

(…………ふざ――――――)

「あぅ?」 

 リカは大きく息を溜め込み、

「――ふざけるなあああああ!!!!」

 雛見沢中に聞こえる大声で、そう叫んだ。

「お前なんかに……これ以上おもちゃにされてたまるか!」

 両手を前に突き出し、“壁”の力で銃弾の雨を退けつつ――。

「“砕”!!!」

 掛け声と共に、羽入の持っていた拳銃が砕け散った。

 瞬時に、風の如く疾駆するリカ。

 狙うは――羽入の後ろに立つ、御神体。

 リカの考えが正しければ、あれこそが羽入をこの世に留めている物であり、同時に最大の弱点のはずだ。

(勝負を賭ける! 羽入の攻撃をかい潜り、御神体を破壊する――!)

 しかし、羽入は全く動じずに、むしろ余裕の表情を浮かべて言う。

「見苦しい……そこまでなのですよ」

 構わずに迫るリカ。真っ向から見据える羽入。

 羽入は、肩をすくめて、

「どうあがいたところで――この祭具殿に踏み込んだとき、すでにリカは敗北していたのですよ」

 嘲るように言った後、ぱちんと指を鳴らした。

 その直後――。

 かつん、と。

 リカの背後から、足音が聞こえた。

 はっと我に帰り、振り返るリカ。

 そこには――ぐったりした沙都子を抱えた、小批木の姿があった。

(しまった、沙都子!?)

 沙都子は死んではいない。気を失っているだけだ。つまり――。

「人質、というヤツですよ」

 事実そのままを、あえて口にする羽入。

 振りむくリカ。

 邪悪な笑みを湛えて、羽入は言う。

「全く、リカは愚かの極みなのです。レナを退けたくらいでいい気になるから、こんな罠に嵌るのですよ。僕がこういう手段に出ることくらい、レナを使った時点で考えるべきだったのです。まあ、もっとも――すでに手遅れなのですがね」

 リカは、皮肉を言う羽入と、沙都子を抱える小批木を交互に見ながら――考えていた。

(状況は最悪ね――。くやしいけど、羽入の言うとおりだわ。沙都子を人質に取られた以上、私にはなすすべがない。沙都子を助けに小批木に向かえば、羽入に仕留められるだろう。羽入に向かえば、沙都子がどんな目に会うかわからない……)

 必死で打開策を考えるリカ。

 しかし――そんなものは、いくら考えても一つしかなかった。

(――沙都子を見捨てる)

 そう思った瞬間、リカはふん、と自虐的に笑った。

(そんなこと――出来るわけないわ。だって、やっぱり私は――古手梨花なんだもの)

 両手を挙げ、降伏するように羽入と向き合うリカ。

 そんなリカの様子に、羽入は満足げに微笑む。

 ゆっくりと近づいてくる羽入。

 その笑顔の中には、どこか悲しげな色が混じっていた。

「最後に一つだけ聞きたいのです。どうして梨花を殺したのですか?」

「……ふん」
 
 リカは鼻で笑ってから、続きを話し出した。

「人は生きている限りいずれ死ぬわ。でもね、死ぬために生きるわけじゃあないのよ」

「それが、何だというのです?」

「死んだものは何もしない、何も出来ない。だからこそ、たった一つしかない命を大事に出来るのよ」

「…………」

「本当に大切なのは、どうやって死んだかじゃない。どうやって生きたかよ。納得いかない死だからって、何度もやり直してたら……生きてるのが虚しくなっちゃうでしょ?」

「……でも古手梨花は、惨劇に打ち勝つためにそれを望みましたのです」

「そうよ。私が望んだ。だからこそ、私がこの手で終わらせたかったのよ」

 話はこれでおしまいよと、覚悟を決めたように、リカはゆっくりと瞼を閉じた。

「……さよなら、フレデリカ」

 そして、大きく振りかぶられた羽入の右腕が、

 

 ――リカの体を抉った。  

 

 

「――わあ!」

 突然宙に投げ出され、沙都子の体は激しく地面に叩きつけられた。

 その痛みで、沙都子の失われていた意識が戻った。

「いたた……どうなってますの?」

 おぼろげだった沙都子の意識が覚醒していく。

 リカと分かれてすぐ――沙都子は小批木に捕って、後頭部に打撃を食らい意識を失ったのだった。

 そしてここは――祭具殿の裏手だった。

「どうしてこんなところに……?」

 周囲を見渡す沙都子。

 そこに小批木の姿はない。

 沙都子の胸中を不安が駆け巡る。そんな中、沙都子が思い出したのは親友の安否だった。

「そうですわ、梨花が……!」

 沙都子は走った。

 祭具殿だ。

 そこにリカがいるという確証はない。しかし、確かめずにはいられなかった。

「こ、これはなんですの!」

 祭具殿の入り口側に回り込んだ沙都子は、そこに散らばっていた血と肉片の山に足を止めた。

「うっ……わ」

 猛烈な吐き気が沙都子を襲う。思わず膝を突き、口元を両手で押さえる。

 しかし――立ち止まっている余裕はない。ここで何かがあったことは間違いないのだ。

「梨花――そこに、いるんですの――?」

 沙都子は血の海を渡り、ふらふらと祭具殿の中へ入った。

 祭具殿に入る直前、ふと昔のことを思い出した。

 沙都子が幼い頃、祭具殿に入り込んで御神体を傷つけてしまったことがある。

 その時、沙都子は叱られるのが怖くて、自分がやったことを言えなかった。その結果――沙都子の親友である梨花が、謂れのない体罰を受ける嵌めになったのだ。

 あの時、沙都子は梨花を見殺しにした。

 その事実は長く沙都子の心を縛り続けてきた。

 沙都子は自身の暗部ともいえるそこへ入ることに、ためらいを覚えた。しかし、それも一瞬のことだ。勇気を振り絞り、その暗闇に足を踏み入れた。

 もう二度と、親友を裏切ることがないように。

 もう何も、大切なものを失わないように――と。

 ―――――そして。

 その最深部で

 沙都子は。

 

 ――古手梨花の死体を見つけた。

 

「梨、花?」

 駆け寄る沙都子。

 冷たい床に仰向けに倒れる梨花の体は、心臓を抉られていた。

 間違いなく、死んでいる。

「り、梨花……梨花ァーーーーーー!」

 わけもわからず、ただその名を叫ぶ沙都子。

「おきて、起きてくださいまし。返事をしてくださいまし。梨花……ねえ、梨花」

 沙都子の両目に大粒の涙が浮かび、ぼろぼろとこぼれだす。

「梨花ぁ……梨花ぁああああああああああああああああああああああ!!!」

 悲痛な叫びが響き渡る。

 膝を突き、号泣する沙都子。

  その傍らには鷹野三四と小批木の死体があったが、涙で濡れた沙都子の目には入っていなかった。

 

  

 

 何だか酷く、懐かしい気がする。

 私は始めてこの世に生を受けたはずなのに、どうしてそんな気持ちになるんだろう。

 この感覚の正体は、概視感なのだろうか。

 いや――生まれたばかりの赤子である私に、そのような感覚があるはずもない。

 ならばこれは、前世の記憶か、遺伝子に刻まれた生命の記録が起こした、一瞬の奇跡のようなものなのかもしれない。

 どちらにしても、あるいは他の何かだとしても、その概視感も徐々に薄れつつある。

 おぼろげな生の感覚が、前世の記憶を霞のように振り払ってくれる。

  ああ――よかった。

 一瞬、生まれてくる方法を間違えてしまったのかと思った。

 生まれながらに自分のことを知っている赤子など、到底真っ当な存在ではない。それは果たして、魔女か物の怪か。

 だから――この不思議な感覚は何かの間違いに違いない。

 早々に忘れてしまうがいいだろう。 

 ――――ゆっくりと瞼を開く。

  おぼろげながら視界が開けていく。

 たくさんの人が私を見ていた。

 その中に、私を覗き込む一つの影を見つけたとき、私は――。

 その角の生えた薄紫色の髪の少女を見つけたとき、私はひどく――。

 

「始めましてなのです。梨花」

 

 酷く、懐かしい気がした。

 

 <<了>>


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