幻想考察ランダム同盟
自殺する夢を見た。
またこの夢だ。
覚醒した私は布団からもぞもぞと這い出て目覚まし時計のスイッチを止めて、気味の悪い夢を忘れるように顔を洗った。
鏡に映る私の顔には生気がなく、お化けみたいだと思った。つけっぱなしのテレビからは行方不明事件について報道していた。
手早く身支度を整えて朝食の準備を済ませてから、ニュース番組など無視してDVDに録画しておいた深夜アニメを視聴した。少年少女の脳内世界で繰り広げられる殺し合いは、ひどくチープで相変わらずつまらないものだったが、現実よりは幾らかマシだ。アニメが終わり、菓子パンとコーンフレークだけの朝食も済ませた私は、制服に着替えて鞄を片手に学校へ向かった。行ってきますなんて言葉はない。なにせ私は安アパートで一人暮らし。言葉など皆無なのだから。
七月初頭のうだるような暑さの中、焼けた鉄板のようなコンクリートの坂を歩く。暑いのは耐えられる……けれど。じわりと浮かぶ汗を拭い、視線を前に上げた。
坂の上に立つのは、県下一偏差値が低い事で知られる工業高校。私の目的地。男女比率九対一。生徒による問題行動多し。近隣住民の評判はすこぶる悪い。重い足取りで先を急ぐ。
なぜ私がこのような学校に通っているかといえば、単純にここしか受からなかったからだ。不出来な私に愛想をつかしたかのようにというか実際愛想をつかしたのだろうが、両親は私に安アパートを貸し与えて実家から追い出した。実家から一駅しか離れていない学校に通うために部屋を借りる必要はない。単なる厄介払いなのだろう。
まっすぐな道を歩く。
急がば回れというが、回ることが近道になるのなら、遠回りしたい時はどうすればいいのだろうか、などと考える私は愚かだ。この道を違える勇気はない。
校舎に入った私は、昨日仕上げたレポートを提出に職員室を訪れた。レポートは先週行われた実習の内容と成果をまとめたものだ。あの実習がどんな内容でどのような成果があったのかはわからないが、無理やりにでも書いて提出せざるを得ない。
担当のヒョロ眼鏡にレポートを渡すと、彼はホッチキスで止められたそれをぱらぱらと見た後、険しい顔をして再提出を要求してきた。肝心なことが何一つ書かれていないというのが理由らしい。それなら再提出など無意味だ。なにせ私は肝心な事なんて何一つわからないのだから、何度やり直したところでその欲求には答えられない。
職員室を後に教室へ向かう。
立て付けの悪いドアを開けると、押し殺した笑い声が私を迎えた。案の定、とでも言うのか。私の机には卑猥な言葉がびっしりと綴られていた。
私がクラスで唯一の女子だからか、それとも単に私の性格が暗いからなのかどうかは知らないが、こういった嫌がらせは日常茶飯事だった。
私は着席し、鞄の中から筆箱を取り出し、消しゴムで卑猥な文字を消していった。何が面白いのか、私が机を掃除している間にも耐えることなく笑い声やら忍び笑いやら爆笑する声が教室に響いていた。特に、悪い意味でのクラスのリーダーである小林君など、大爆笑している。
私は無視して消しゴムをがしがしかける。かける、のだけれど。
……やばい。ちょっとだけ泣きそう。
こんなのはいつものことで、辛くもなんともないはずなのに、今日の私はいつにもまして脆弱なようだ。ふるっと肩が震えてくる。
体の振るえをごまかすように、消しゴムを走らす手を加速させる。
泣くな、泣くな。
呪文のように頭の中で繰り返す。
私の努力が実ったのか、教室を包んでいた笑い声も次第に薄れ、雑談や談笑に変わる。まあ、単に私をおもちゃにするのに飽きただけだろう。少しだけ気持ちを落ち着けて、消しカスを集めて鞄に入れた。誰も絡んでくる様子もないようだから、レポートの直しをすることにした。どうせわからないが、実習の教科書を取り出すために、引き出しに手を入れる。
あ。
何か違和感。
封筒くらいの大きさの物が……というか封筒が入っていた。四次元くずかごと化している私の引き出しにしては、ずいぶん拍子抜けする代物だった。当然、私はこんな封筒を入れておいた覚えはない。そっと取り出して見ると、いたって普通の茶封筒だった。封はされておらず、中に何か入っているようだ。机には卑猥な言葉だったから封筒には盗撮写真でも入れられているのかと想像したが、出てきたのは白い紙切れだった。
丁寧に折りたたまれたそれを広げると、予想外の言葉が書かれていて、私をひどく動揺させた。
「がんばれ」
そこにはそう記されていた。
私はさきほどとは違う意味で泣きそうになってしまった。
咄嗟に折りたたんで封筒にしまい、引き出しの中へ押し込んだ。こんなものを誰かに見られたら、これを書いた人に危害が及ぶ恐れがあるからだ。
誰かはわからないけれど、もしかしたら、このクラスに私を応援してくれている人がいるかもしれない。私の心に暖かいものが過ぎる。悪戯かもしれない、でも、信じたい。
ちらりと教室を見渡す。
群れを成して盛り上がっている集団がちらほらある中で、一人だけ孤立している男の子の姿が目に留まった。
あ。
目が合った。
彼は……竹田君は、私の視線に気付くと、気恥ずかしそうに視線を逸らしてしまった。
それで、わかってしまった。
この手紙をくれたのは、きっと竹田君だ。
ああ、なんてことだろう。
竹田君は、私と違って頭が良くて運動神経も抜群で、一匹狼のように人と群れない気高い男の子だ。孤立し、いじめられている私なんかとは違って、彼は孤高の存在なのだ。
そんな彼が、私にがんばれとエールを送ってくれたなんて……。
私はもう一度、ちらりと竹田君を見た。
あ、また。
また眼が合ってしまった。
なんだか恥ずかしくって、今度は私が眼を逸らしてしまった。
どうしよう。
ま、間違いない。
竹田君が、私を見ているなんて。
私を応援してくれているなんてっ。
私は幸せをかみ締めるように……けれどそれを顔には出さないように努力しながらも、ちょっとだけ顔が緩んでしまっていることを自覚した。
ああ、もう。
なんて幸せ。
授業が始まって、私はいつものように空想遊びに耽る事にした。入学して一年、私はまともに授業を受けた試しがない。そもそも工業高校なんてものは工場なんかの職場に就職するくらいしか進路先がない。だというのに私には就職する気なんてさらさらないのだから、まともに授業なんて受ける気になれないのだ。
私は幻想世界の構築を始める。
教室の喧騒から意識を遠ざけ、脳内に私だけの世界を構築する。それは肉体から魂を乖離させる感覚に近い。肉体を捨てた私は、自らが構築した理想郷たる世界へ魂を導く。
その名を幻想世界。
そこで私はあらゆる苦痛から解放され、翼を得た鳥のように自由を得る。
そこではなにもかもが私の思うがまま。
お気に入りの音楽を流すもよし、素敵な物語を紡ぐもよし、あるいは無の境地に身をゆだねるもよし。
心地よさに、時の流れを忘れる。
果てない永遠にも似た快楽の創造と享受。
まさに理想郷といえる幻想世界なのだが、時にそれはもろくも崩れ去る。
「北原、北原冬美っ」
野太い声が世界を砕いた。
私の意識は現実に引き戻されてしまった。
あらゆる事象を拒絶可能な幻想世界も、自分の名前を呼ばれたときに限っては現実世界に打ち負けてしまうのだ。長年幻想世界を構築してきた私だが、これだけはどうにも出来ない問題だった。
「この問題を解いてみろ」
と、人の気もしらないで、数学教師が黒板の数式を叩くが、私にわかるはずがない。
わかりませんという意思表示で首を横に振る。教師はあっさり他の生徒を指名した。
興が削がれてしまった。
幻想世界の構築には多大な集中力を要するというのに、教師という人種は何の罪悪感もなしにせっかく構築した幻想世界を容赦なく壊してしまうのだ。
私は心の中で毒づきながら、再び幻想世界の構築を始めた。
穏やかに、早急に、時が流れて行った。
昼休み。
私は図書室でレポートの直しをしていた。
利用者がほとんどいない長テーブルの隅に座って、苦痛でしかない作業を進める。
何を直せばいいのかさっぱりわからないのだが、とりあえず教科書に書かれていることを適当に書き足していく。なんとも無意味な作業だ。これでまた再提出になったらどうしようなどと洒落にならないことを考えながら、下書きもせずボールペンを走らせていると、
「あなたはどうして生きているんですか」
突然わけのわからない事を言われた。
驚いて顔を上げると、向かいの席に小さな女の子が座っていた。いつの間に、という疑問は、しかし女の子の姿を見たと同時に、どこかへ吹っ飛んでしまった。
死体のようだと思った。
作り物めいたアイスブルーの瞳。表情のない顔。白い肌に黒い服は喪の色を連想させるが、喪に服すというよりも、その様相はストレートに死を連想させる。
なぜ学校に私服で来ているのかとか、どう見ても私より年下で小学生くらいにしか見えないとか、外人なのだろうかとか、思うところは多いのだが、それ以上に私にはこの少女が生きているものとして実感できない事が不気味だった。
死体が喋っている。
困惑している私に、死体はさらに言葉を続ける。
透き通った声は鋭利な硝子のようでいて、
「あなたには、生きている意味なんてないでしょうに」
私の心を傷つけた。
なんだろう、この死体は。
死体は音もなく立ち上がると、そのまま去って行く。
私は咄嗟に立ち上がり、声をかけた。
「待って」
私は自分のかすれた声に驚いた。考えてみれば、今日声を出したのはこれが初めてだ。
それにしても、なぜ呼び止めたのか。
ぴたりと足を止めた死体に、私は戸惑いながらもたずねる。
「あ、あなたは誰なの?」
死体はゆるりと首を動かして振り返ると、無表情で答えた。
「鈴鳴リン」
「リン、ちゃん?」
反復する私に、リンちゃんは言う。
「あなた、喋れたんですね」
それはまるで、私の心を見透かしたかのような一言だった。
リンちゃんは、そのまま図書室を去っていった。
私は腰を下ろすことも出来ず、そのまましばらく呆然としていた。
「どうしたの? 北原さん」
と、名前を呼ばれて、ようやく我を取り戻した。
「た、竹田君」
先ほどリンちゃんが座っていた位置に、今度は竹田君が座っていた。
一匹狼のイメージだった竹田君が私に話しかけてきたというだけで驚きなのに、先ほどのリンちゃんのこともあって、私は心ここにあらずという感じだった。
「そんなにぼーっとしてるとさ、行方不明事件の被害者になっちゃうよ?」
と、妙な事を言われた。
「ほら、ニュースでやってたじゃん。この辺で行方不明事件が多発してるって。俺らと同い年の女子高生も一人、行方不明になってるらしいからさ、気をつけた方がいいよ。北原さん、ぼーっとしてるの多いから」
竹田君はそれだけ言って、その場を去ってしまった。
残された私は、嫌が応にも竹田君の話した行方不明事のことを考えていた。
竹田君は知らない。
行方不明になっている同い年の女子高生というのが、私の中学生時代の友人だということを。
久保俊子は、私の生涯において数少ない友人の一人だった。
俊子にとっても私はそういった貴重な存在らしく、家が近い事もあって、登下校はいつも一緒だった。
「わからないの。生きている意味が」
ある日の帰り道、俊子はふいにそんなことを言った。
「あたしね、自分の事が嫌いなの。顔は悪いし頭も良くないし、俊子なんてダサい名前も大嫌い。こんなあたしが生きていたって、何にもならないと思うわ」
俊子はポケットからブロマイドを取り出して眺めた。それはアニメのキャラクターがプリントされたものだった。中性的で美形なキャラクターだ。
「知ってる? アセルス様よ」
私はそのキャラクターを知らなかった。
「そう、残念ね。あたしはね、アセルス様になりたいの。こんな下らない現実を捨てて、素敵なアセルス様に生まれ変わることが出来たら、どんなにいいだろうって、思うわ」
俊子の言う事もわかる。
私には当時から空想の気があったから、現実逃避にしか過ぎなくても、幻想に憧れる俊子の気持ちは痛いほどわかる。
現実を捨ててでも、いや、現実を捨ててこそ、幻想に憧れる俊子の気持ちが、私には解ってしまう。
俊子は私を見ていない。アセルス様のブロマイドを見ながら、独り言のように話している。
「きっとね、あたしの中には空白があるのよ。そこには、本当なら夢とか希望とか、生きる為に必要な何かが入る所。でも、あたしはそこが空っぽだから、何かで空白を埋めなきゃいけなかった」
それが。
「それが、アセルス様」
会話はそこで途切れた。
私は俊子とは別の高校へ進学して、会うこともなくなった。
そして、最近になって、ニュースで俊子が行方不明になったことを知った。
私は驚かなかった。
きっと俊子は、幻想世界に行ったのだろうなと、そんなありえないことを考えて、納得してしまっていた。
チャイムの音で我に帰る。
昼休みが終わる五分前の予告チャイムだった。私はレポートと筆記用具を抱えて、ふらりと図書室を後にした。
「あなたはどうして生きているんですか」
リンちゃんの言葉。
「わからないの。生きている意味が」
俊子の言葉。
生きている意味。
私は自分の手元を見た。
書きかけのレポート。
こんなものに何の意味があるんだろう。
無意味だ。
苦痛でしかない学校生活。
現実逃避の空想遊び。
そんなものは、全部無意味だ。
レポートがすべり落ちる。
筆記用具が廊下に散らばる。
ふいに、途方もない絶望感に襲われた。
気づかないようにしていたそれに、気づいてしまったから。
一体私は、何のために生きているのか。
辛いだけの毎日に、何の意味があるのか。
決まっている。
そんなものに意味はない。
私が生きている意味なんて、ありはしない。
廊下がぐにゃぐにゃと歪曲している。
夢でも見ているのだろうか。
歪みは収まることなく、どんどん大きくなっていく。
ぐにゃぐにゃした世界で立ち尽くす私の前に、突如それは現れた。
空白。
空白がそこにある。
天井と床が引っ付きながら壊れている。
壁と壁は際限なく離れては、歪んではねじれる。この上なく崩壊した世界に現われたそれは、私を呼んでいるような気がした。
似ている、この感覚は。
幻想世界に似ている。
私は逃げるように、その空白へ飛び込んだ。
そこは会議室のような場所だった。
私を取り囲むようにして机と椅子が並べられ、たくさんの人が私を見ていた。
「こ、ここは?」
私の問いに、正面に座っていた少女が答えた。
「ここは幻想同盟第十八支部ですよ。北原冬実さん」
鈴鳴リンちゃんだった。
「幻想同盟?」
「そうです。あなたは私たち幻想同盟の一員として迎えれられたのです」
「いきなりそんな事を言われても……」
動揺する私に、リンちゃんが無表情のまま説明する。
「私たちは人間の幻想から生まれた存在なのです。現実に存在するあらゆる苦痛、生きる事の無意味さから開放された存在なのです」
「そして、全人類を幻想へと昇華させることが我々の目的……」
リンちゃんの言葉を受けて、中性的な顔立ちの人が言った。
その人の顔を見て、私は言葉を失った。
そこにいたのは、アセルス様だった。
アニメのキャラクターのはずのアセルス様が、なぜか普通の人に混じって座っている。
いや、周りにいる人も、よく見てみれば普通じゃなかった。
バッタをモチーフにした変身ヒーローや、巨大化する宇宙人など、どこかで見たような人たちばかりだ。見たことがない人もいるけど、奇妙な容姿をしていることは共通している。一言で言えば、ここにいる人たちの全てが、現実離れしていた。
「ここにいるのは皆、現実を嫌って幻想世界を夢見た者たちです。あなたのように」
「わ、私が?」
「驚くことはないでしょう。あなたは常日頃から現実を拒絶し、幻想世界に身をゆだねていたではありませんか。それは充分、我々幻想同盟の会員たる資格です」
「じょ、冗談はよして。そんな資格があるなんて言われても……」
「それではあなたは、あの苦しいだけの現実へ戻りたいのですか。幻想同盟に入れば、あらゆる苦痛から開放されるのですよ」
「わ、わからないよ。何がどうなってるのか」
「いい加減目を覚ましなよ」
そう言ったのはアセルス様だった。
「あなた……誰なの?」
「やだなあ。忘れちゃった?」
アセルス様の顔がぐにゃぐにゃと歪み、私の良く知っている人物へと変化した。
「と、俊子」
「思い出したようね。冬美。そう、あたしはくだらない現実を捨てて、幻想同盟に入って、理想の姿を手に入れたのよ」
「あ、有り得ないよ」
「有り得てるじゃないの。冬実も意地張ってないで入りなよ。ここはすごく、楽しいところよ」
あはは、と笑い出す俊子につられて、他の人たちも声を合わせて笑い出した。不協和音が重なるような笑いの渦に包まれて、私は目を閉じて、耳を押さえてうずくまった。
「…………ん」
白い天井と蛍光灯が目に入った。
どうやら保健室のベッドで寝かされていたらしい。雨の音が聞こえる。いつのまに振り出したのか。
時計を見ると、すでに放課後だった。ずいぶん眠っていたらしい。
もそりとベットから這い出ると、保険の教師に、私が廊下で倒れていたことを教えられた。
覚醒しきらない頭で廊下へ出ようとすると、保険の教師が私にある物を手渡した。
書きかけのレポートだった。
ああ、と思い出す。
これを出さなければいけないんだ。
そのまま職員室へ向かって、担当の教師にレポートを渡した。教師は奪うようにレポートを取ると、すぐにそれを読み終えて、私に付き返して怒鳴った。
「レポートは今日の昼休みまでだと言っただろうが! 大体朝から全然直っていないじゃないか! もう一度やり直しだ!」
「で、……でも」
再提出が嫌で、私は心にもないことを言った。
「これでも私、一生懸命やったんです」
「何が一生懸命だ。バカモン!」
げんこつのおまけまで貰って、職員室を後にした。
雨の音を聞きながら廊下を歩く。
どうして私がこんな目にあわなければいけないんだ。
こんなレポートは無意味なのに……。
「そう。無意味です」
どこからともなく声が聞こえた。
誰?――周囲を見渡してみても、人の姿はない。
「私です。リンです。私たちはいつでもあなたを見ています」
そ、そんなバカな。一体どこから……。
「あなたの頭の中ですよ」
うわあああっ。
私は逃げ出した。
傘も差さずに外へ飛び出して、ずぶ濡れになって走った。
「無駄です、逃げられませんよ。現実からも、幻想からも」
じゃ、じゃあどうすればいいのさ!
雨の中を走る私に、声は告げる。
「簡単ですよ。あなたが現実を完全に否定して、心の底から幻想を受け入れればいいのです。そうすれば、楽になれる」
そ、そんなこと言われても……簡単には決められないよ。
「おや、なぜですか?」
現実は苦痛だけど……そこから出て行くのも、怖い……。
訳もわからず走り回っていた私は、目に留まった本屋へ駆け込んだ。
「はぁ、はぁ」
落ち着いて呼吸を整える。
傘も差さずに走ったから、全身がびしょ濡れになっていた。
「おい、北原」
ぐい、と乱暴に肩を掴まれた。
振り返ると、そこには……小林君がいた。
「お前ずぶ濡れじゃん。なんならオレが傘を貸してやろうか」
私の体をじろじろ見て、いやらしい笑いを浮かべる小林君。
「や、いやあっ」
私は小林君を突き飛ばして、そこから逃げ出した。
再び雨の降る外へ出たとき、後ろから小林君の罵声が聞こえた。
もう滅茶苦茶だ。
誰か、誰か助けてっ。
発狂して叫びだす寸前だった。
いや、もう叫んでいたかもしれない。
勢いを増す土砂降りの中で、壁にぶつかったりゴミ箱をひっくり返して走っていた私の前に、竹田君が現れた。
ああ、竹田君。
私は竹田君の足にすがりつき、泣いて助けを求めた。
何を言ったのか、よく覚えていない。
でも竹田君は、私の手を掴んでくれた。
そして私を導いてくれた。
ああ、よかった。
私には、まだ頼れる人がいたんだ。
私を必要としてくれる人がいたんだ。
竹田君の部屋でシャワーを浴びながら、私は体についた汚れを落としていた。
まだ頭が混乱している。
いや、何も考えるな。
私は思考を中断して、ただシャワーの快感に身をゆだねる。
ドアが開いた。
全裸の竹田君が入ってきた。
「え?」
竹田君は私の体に触ってきて、膨張した下半身を押し付けてきて、あらい呼吸が気持ち悪くて、竹田君の体の感触が余りに気持ち悪くて。
私は竹田君を突き飛ばしていた。
竹田君はつるりと滑ってバスタブの角に頭をぶつけて動かなくなった。
え?
竹田君の胸に触れてみる。
脈を図ってみる。
あ。
死んでる。
竹田君は死んだ。
あ。
なんだっけ。
どうなったんだっけ。
ちょっと整理してみよう。
私は竹田君を殺した。
「わあああああああああああああ!」
ダメだ、もうダメだ。
もうどうにもならない。
私は人を殺してしまった!
開きっぱなしのドアから、テレビが見えた。画面にはリンちゃんが移っていた。
「逃げれますか? 人を殺した現実から」
う、うわあ。
そんなの、逃げれるわけがない。
もうどこにも逃げられない。
私は裸のままで竹田君の部屋をひっかきまわして、それを探した。
それは、すぐに見つかった。
私は包丁を逆手に持って、自分の心臓に突き刺した。
自分でも驚くほど、何のためらいもなかった。
ただ、逃げたかったから。
今すぐここから逃げたいと思ったから。
こうすれば、逃げられると思ったから。
ぐさり。
ああ、痛い。
ずぶりと刃を抜く。
大量の血が吹き出る。
痛い、痛い。
生きてる事はなんて苦痛なのか。
生きる事にはなんて苦痛が伴うのか。
そんなものは、もうたくさんだ。
逃げたい、早く。
早く終わりにしなければ。
二度三度、包丁を突き刺す。
ぐりぐりと動かして傷口を広げる。
震えるからだ。
激しい痛みは誰の為?
自分の為だ。
楽になるためだ。
膝を突く。
もう力も出ない。
痛みも薄れ、意識が遠ざかる。
後悔はない。
衝動に身を任せた自殺。
でも後悔はない。
テレビの中で、リンちゃんが笑っている。
ああ、そんな顔も出来るんだ。
リンちゃんが言う。
「ようこそ、こちら側へ」
透き通った声が、私に空いた傷口から浸透していく。
この上ない安堵と心地よさに包まれながら、私は意識を失った。
<<了>>
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